第39話 天国の日々

 その後に続いた、俺が女と共に過ごした恍惚の時間を、何と呼ぶべきだろう。

 現実味のある幻覚、あるいは夢? 苦難の末の楽園? 別の世界で開けた新たな人生? それとも、俺の”想い”と貞操の強さをはかるために誰かによって仕掛けられた、タチの悪いテスト?

 この一か月……あるいは、数か月だったか……いや、もはや時間の経過などとうに分からない。もう俺にとっては、時間など意味をなさない。元々いた世界を離れてから数日しか経っていないような気がするし、十年も経っているような気がする。本質的には、時間などないのではないか。まやかしなのではないか。俺は地球を離脱して惑星旅行をするように「世界の壁」の外へと出た。いざ世界をいくつも渡ってみると、時間というのはこれほどまでに人間の心にあいまいな感じを与えるのか。

 あの<浮世>と呼ばれる無数の世界を外から管理している人間たち(?)によるものかどうかは分からない。だが、俺がいま見、聞き、味わっているこの世界は、これまで何度も俺を弄んできた。怒りを超え、もはや諦めと脱力が俺の身内を満たした。繰り返し俺の身の回りで起こる、あの不可解で理不尽な現象に対して。もう少し俺に気力が残っていれば、いつか黒地の胸の上に見た、四方八方に鋭い光を投げかける星と不気味な目をこちらへ向けてとぐろを巻く蛇の金色のシンボルを頭に浮かべながら、空へ向かって声の限り叫んでいただろう。

 ともかく、違う世界で、違う肌の色の女と過ごしたこの数日間は、美しかった。それはまるで快楽そのもの、と言ってもよかった。それだけにここでの生活は俺に強く影響を与えた。日を追うごとに、俺に驚くべき変化が起きた。

 この世界に来て当初、俺の胸の内には、耐えられないほどの苦しみがあった。強い罪の意識から生まれたその苦しみは、二度と拭われることはないだろうと思っていた。しかし、消えないと思っていた、”消えてはいけない”と自縛していたその苦しみは、海と繋がる大空を仰ぎ、星がいっぱいに瞬く夜空を見上げる毎に、次第に薄れていったのだ。巨大な「全」である自然が、俺という一つの「個」を無意識のうちに飲み込んでいったかのようだった。それにより、苦しみや痛みといった負の感情は、森の奥に繁茂する複雑な枝や葉や蔦によって濾過されていった。いま俺の胸の内にある感情は、ひっそりと強かに佇む青々とした植物たちが持つ感情に近づきつつあった。常に左右に揺れていた心の針は、ほとんど真ん中で静まっていた。

 


 ――以下が、俺がこの世界に来てから二、三週間のうちに起きたことだ。

 俺は最初、この世界のまぶしい空と海からどうにか逃れようとしていた。木陰に入って自分の内側の世界に籠ることを好んだ。「自分はこんな楽園のような場所にいていい人間ではない」この言葉が俺の中で繰り返された。ふわふわと柔らかな白い砂さえ、皮肉じみて感じた。

 しかし、そうやって俺が塞ぎ込むたびに、緑の肌をした異世界の女が調子を崩した。

 ある時、女は、俺に大きな果物をくれた。頭二つ分くらいはある、巨大な丸い紫の果物だった。俺が一向に口をつけずにいると、女は石を持ってきて果物を叩き割り始めた。陥没して果汁が溢れている部分を執拗に俺に押し付けてくるので、少し口にした。全身に力が蘇るような美味さだった。俺は思わずそのまま食べ続けた。女も隣に並んでもう一つの果物を口にし始めた。

 その時、脳天へ衝撃が走った。いつか見た、見開き二ページに描かれた絵を思い出した。この世界へ来る前にいた世界、あの、男と女が隔絶された世界で見た絵の様相といま自分がいる状況が酷似していることに気づいたのだ。緑に満ちた島、深い青の空と海、木の上で果物を男へ手渡す全裸の女……。あの本に描かれていた世界は実在していた。俺は目を見開いて遠くの海を眺めた。どういった経緯でかはまるで分からないが、俺は知らず知らずのうちに、あの男ばかりの世界で伝説とされていた世界へとやって来ていたのだ……。

 


 俺と女は無言で果物を食べ続けた。目の前に見える海だけが音を立てていた。穏やかでまろやかな波の音は、口の中の美味に一層の心地よさを添えていた。

 突然、背後の森の奥から、葉と葉が激しく触れ合う音がした。振り返ると、遠くに人がいるのが見えた。裸の男だった。それを見て、ちゃんと男もいるのか、と異様な安堵を覚えた。太ももの筋肉を使い、股を大きく広げて枝と枝と飛び移っていく力強い姿を見た。

 果物を食べ終えた二人は、静かに海を眺めていた。

 その時、初めて女の体臭に気づいた。体臭というより、生々しい生き物の匂い。生き物といっても獣のような匂いではなく、これまであまり嗅いだことのないふしぎな匂いだった。浮かぶイメージは花畑の匂いだった。花と土の間に漂う、自然の匂い。

 黙って隣に座っていた女は手を伸ばして俺が肩から掛けている布に触れた。こういう世界だから珍しく感じるのだろう。興味深そうな眼つきで、しげしげと薄黄色の一枚布を眺めていた。すると、女はおもむろにそれを指先で引っ張って俺から引き剥がし始めた。俺は一瞬抵抗感を感じた。しかし、その時気づいた。この世界の住人は、全員、一糸まとわぬ姿だ。衣服のようなものを身に着けているのはこの地で俺だけだ。……俺は腹を括って女のするがままに任せた。前の世界での、男ばかりの乾き切った生活から来る反動は、この瞬間に如実に表れた。俺は全裸になった後しばらくは身を縮こまらせて座っていた。

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