第38話 深く澄んだ青の世界
女は踊るように跳ねながら、枝と枝を渡っていく。女の進み方は、右の枝へ行ったり左の枝へ行ったりと、ジグザグだった。まるで俺のスピードに合わせてくれているみたいだった。
俺は虚ろな心でひたすら彼女の背中を追いかけた。なぜか心のどこかで、打ちひしがれた自分にとって、いまそれをすることが最良のこと、あるいは、癒しになり得るものだと感じていた。
女が乗っている枝に辿り着いた。ほぼ直線上に女の背中がある。と思うや否や、その先には驚くべき光景が見えていた。「森の出口」だ。細かい枝の先からさらに細かい枝が伸び、無数の鮮やかな緑の葉が四方に広がり、「出口」の先に見える景色を遮っていたが、それでもそこに見える一面の青さは、遠くからでも重く濁っていた俺の頭の奥を洗うようだった。
女は俺に一瞥すると、枝から飛び降りて、砂浜のような白い砂の上を駆けて行った。
俺はその青い景色を真っすぐに見ながら女の後を追った。枝の同じ位置で止まり、きめ細かい砂の上へと、ゆっくりと両足を降ろした。驚くほど柔らかな感触だった。ふわふわとしているのだが、歩きながら、しっかりと地面を蹴っている感触がある。
木陰を過ぎ、まぶしいほどの日向へと足を踏み入れた。ひさしぶりの太陽の光に頭が揺らいだ。焦点があいまいになった。そこで俺が見た光景は、まさに夢のようだった。誰もが口にする、百万回繰り返された平凡な表現だが、その他に俺が感じたことを率直に表す言葉はなかった。強く、濃い、青。空も、海も、どこまで行っても青だった。俺がいた世界でもこういう種の景色は何度も見たことがあったが、これは青すぎるほど青だった。青の密度が高いというか、青の奥行きが果てしないというか、とにかく俺にとって信じられない光景だった。
立ち尽くして俺が放心状態となっている一方、女は嬉々とした様子で海に浸かっていた。俺が見たどの海よりも深く濃い青色の海は、女の膝を飲み込みこんでいた。俺へ向かって手ですくった海水を持ち上げては指の間から滴らせるということを繰り返している女は、すっかりと俺に全裸の姿をさらしていた。
ようやく俺は女の元へと辿り着き、女にいざなわれるまま海へと足を差し入れた。少しずつ、女との距離を縮めて行った。改めて日の下で見ても、女は美しかった。歳はあまり変わらないくらいだろうか。鼻は高く、頬から顎にかけてのラインはいくらかシャープに見える。こっちの世界でいう白人のような顔つきに近い。
異世界の住人とはいえ、大きく言えば俺のいた世界の女とほとんど変わりがない。ただ一つ、肌の色以外は。燦然と輝く日の光の下では、女の肌と俺の肌の色の違いは一層明らかになった。白、黒、黄、褐色など色々な肌の色をした人種が、俺のいた世界にはいた。だが緑は見たことがなかった。なぜ俺の世界には歴史上、緑色の人種がいなかったのだろう、という疑問よりも先に、緑色の肌の人種を見たことがないということになぜ少しも疑念を挟むことがなかったのだろうという思いが浮かんだ。
海の水をすくって俺の手のひらに滴らせる女の手の平の緑は、一層濃かった。
確かに、俺と女は見るからにあらゆる点で違っていた。それでも、女は俺と同じ人間だった。髪の毛、顔、腕、腹、脚……。お互いが生きている世界や性別に違いはあれど、どこを見ても「似ている」ということに安堵を覚えた。何も身に着けずに全てが露わだったからこそ、その感は強まった。
ウェーブのかかった茶色の髪をかきあげ、青の絵具を溶かしたような海水を再びすくった。そして、俺の脇腹にある擦り傷にかけた。激痛が走る、と思いきやその反対で、とても心地よかった。筋肉の緊張がほぐされるような気持ちよさがじんわりと脇腹から伝わってきた。俺は思わず驚きながら女の顔を見た。女の大きな目も、俺を見返した。心持ちその口元には微笑がにじんでいた。当然、言葉はなかった。それでも心が通ったことを確かめるには十分だった。
女はそのあとも俺の体中にある傷に海水をかけてくれた。女の手つきは驚くほど柔らかで優しかった。何よりも、俺は一切の「前提」を無視した、女の無条件の心遣いに驚いた。ただ一つ引っかかることといえば、直立不動で女に海の水をかけてもらっている間、目のやり場に困ったということだ。
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