第34話 陰鬱な孤城

 数日ののち、雨が降った。


 初めて厚い曇り空に相応しい光景を見た。男たちは狂喜乱舞するわけでもなく、相変わらず淡々としていた。もしかすると、雨はめったに降らないとはいえ、ちゃんと定期的に降っているのだろうか。


 その翌日、ついに待ち続けた時がやってきた。男たちは荷車を引っ張り出し、小麦や大豆、イモ、それから塩漬け肉や干し肉などの食料を積み始めたのだ。俺は信じられない気持ちのまま、彼らの積み荷作業を手伝った。


 ――そのままの流れで、俺も荷車を後ろから押す役として男たちと共に集落を出発した。男たちはそんな俺を見ても、誰も見咎めなかった。


 昨日一日中雨が降っていたせいで、地面は湿っており、その青色は一層濃く見えた。いつも乾いている空気も程よい湿気があった。気持ちの良い朝だった。


 俺は背中まで天然パーマの髪を伸ばした男の引く荷車を後ろから押して行った。積んでいる野菜の泥の匂いがする。このどこか落ち着く匂いは自分がいた世界と変わりがないんだと思った。と同時に、懐かしい気持ちになった。


 ――平板な荒地をどんどん進んで行く。どこを見渡しても広大な砂漠地帯のように何もない。


 体感で一時間くらいは経ったか。


 一体どれくらい歩くのだろう。


 まだ景色は変わらない。


 あまりに手持ち無沙汰だったので俺はこれまで出会った「この世界を管理している人々」に思いを馳せていた……。


 いまだに信じられないが、もし彼らが本当にいくつもの世界――彼らいわく<浮世うきせ>というらしいが――を監視しているのなら、いま俺が得体のしれない辺境の世界に紛れ込んでいることも知っているはずだ。荷車を押しているこの最中も、彼らは俺を見てるはずだ。彼らの仕事が、無数に存在する<浮世>の管理であるならば、俺が本来いてはいけない世界にいることは秩序を乱すことであるはずだから、あの時、黒スーツの女と作業着の中年男がしたように俺を探しに来てもいいはずなのに、この沈黙は何なんだ。あれ以来、赤い世界も見ていない。なぜ何も起こらない、なぜ誰も来ない。


 俺はあの中年男の言葉を思い出していた。


「君たちは毎日、何不自由なく平穏な日常を送っているかもしれないが、その裏には、君たちが信じられないほど広くて複雑な世界が広がっているんだよ」


 空を見上げた。


 どこにある? この空の先か? それとも宇宙の先か……?


 ……視線を戻した。


 あるいは、この「現実」を形作る空間の裏側か?常に見えないように隠れているのか?


 無数の世界に住む無数の人間を、ピラミッドの頂点から眺め見ている……そもそも彼らは人間なのか? この現実が外から観測可能で操作可能だということ、それはつまり、彼らが存在している次元が違うということだから……。


 そこで俺は考えるのをやめた。その先を想像するのは恐ろしかった。無音の赤い世界にいた時に見た、あの黒い作業服の男の胸に輝くバッジの、こちらを見る蛇の目が脳裏をかすめ、俺の存在そのものを恐怖で強く震わせた。  


 さらに二、三時間ほど歩いたか。


 途中、休憩を挟みはしたものの、俺の足はもう限界だった。脚よりも足が痛くてたまらなかった。特に足の裏はいまにも横一文字に張り裂けるのではないかというほど疲弊していた。角張った石が埋め込まれた地面を踏もうものなら、絶叫しそうだった。というよりほとんど絶叫くらいの声は出ていた。今日ほど靴の有難さを感じた日はなかった。


 次第に首や脇にも汗が出てきた。シャツなどを着ていればじんわりと汗が染みこみ下に流れるのを留めてたかもしれないが、いまでは半裸同然だったから、脇汗は水滴となって脇腹を伝って行くのが分かった。


 それとほぼ同じタイミングで他の男たちの体臭も風に乗って匂ってくるようになった。俺のいた世界ではまず嗅いだことのないような匂いだった。野性そのもののような匂い。彼らは風呂に入るという習慣がないから、長らく放置された皮脂や汗の匂いを俺はそのまま嗅いだ。


 さらに三十分ほど陰鬱な青い峡谷を通ると、ようやく遠くに巨大な城が立ち現れた。ここからかなり距離があるはずだが、それでも圧倒される感じを受ける。何よりも、その雰囲気が異様で不気味だった。遊園地にある廃墟風のお化け屋敷、あれに近い。前に絵で見た通り、すべての壁面は青っぽい日干しレンガのようなもので出来ている。それが不気味な感じを与えるのかもしれないが、カレンと共に見たあの活気とは程遠い陰気な女たちの群れを思い出すと、妙に納得がいった。


 ここに、カレンが……。


 俺は腹を括った。城の中がどうなっているのか分からないし、城内のどこにカレンがいるのかも分からない。それに、この土地で何が男たちと女たちの間に起きて、何がきっかけで永久に分かたれることとなったのかも分からない。ただ俺はやらなければならない。身を削ってでも、どんなリスクを負ってでも……たとえ力づくでも、カレンをあそこから助け出さなければ。もはやここでは、男だから女だからとか、生まれつき腕力が強いとか、生まれつきか弱いとか、そういう既成概念は通用しない。そのうえ言葉も通じないわけだ。だからこそ余計な事を考えず正々堂々やろうという選択肢のみが、俺の前にあった。荷車の食糧の山に紛れて、こっそり壊れた家具からへし折った木の棒を持ってきたのはそのためだ。

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