第19話 天の使い

 ワタルは車で誰もいない夜道を走りながら、何百年も前から<八叉の守り人>を雇っているのは何者なのかを考えてみた。

 少なくとも、人間ではないだろう。そもそも直属の上司にあたる、あのスーツ女の中村ユイも人間ではないのだから。姿かたちこそ普通のキャリアウーマンといった感じで、全く違う出会い方をしていたら彼は惹かれていたかもしれないほどの凛とした美女だが、彼女がやっていることは「人間の行為」をはるかに超越している。見方次第では「未来人」のように見えるかもしれないが、彼女はまずワタルたちの生きている次元にさえ存在していない。この世界を四次元だとすると、彼女がいるところは五次元だ。つまりピラミッドを一つの世界としたとき、ワタルたちよりも一段高い世界から彼らの営み全てを見下ろしているのだ。見られている彼らは決してそのことには気づかない ―― 上を見上げない限りは ――。彼女たちはそうしてこの世界の時間と空間を管理している。四次元のこの世界でも市区町村の役所があってそれによって種々の管理を行ってるように、それをはるかに大規模に拡大したようなものが上の世界にもあるというわけだ。

 ワタルは実際その「時空管理局」を見たわけではなく、一家に古くから一子相伝で伝わっている文書と中村ユイから聞いた話で把握しているだけなのだが、三十年間、彼らから指令を受けて仕事をやってきているというのに、その組織の名前や目的がはっきりしていないのが不可解だった。彼はこれまで知れば知るほど分からないことに出会うこの仕事について、いろいろと中村ユイに質問をしてきた。彼女は一通りは教えてくれたがどこか常に隠している様子だった。どこまで答えられてどこまで答えられないのか、その線引きがよくわからず何度もやきもきしたものだった。

 彼が<迷いの間>に送られると自動的に着せられている、中村ユイと同じ全身が黒に染まった「制服」 ―― なぜつなぎの作業服なのかいまだに疑問が解けていないが ―― その胸に付いているバッジ……これがヒントを与えてくれる唯一のものだった。長年この仕事をしながら、たまにその金色に光るバッジを見ては考えたものだった。そして三千世界(並行世界を含めた全ての異世界)の仕組みが記された家伝の文書の内容と照らし合わせながら自分なりに答えを出そうと努めてきた。腹のあたりに重く沈むような気持ちの悪さを感じながら、改めて問うた。『我々一族を時空の管理人として雇ったのは、誰なんだ?』

 車を自宅の地下駐車場に停め、エレベーターでさらに下へと下る。ワタルの部屋は地下五階にある。このマンションは地下五階と地上十階で合わせて十五階建てだ。ここ周辺は、都心から近いので核戦争の危機があった時代の名残で地下にマンションをつくったり店を出したりしているところが多い。

 『やはりあそこに行った日は疲れる……』とワタルはリビングにあるソファに背中をあずけてそう思った。

 <迷いの間>では体力的な消費はあっても時間的な消費はほとんどない。向こうの世界の一時間は、こちらの二、三秒にあたるので、現実世界に与える影響はごくわずかだ。それに、たとえ仕事や車の運転の最中にむこうの世界に呼ばれようと(”行く”のではなく”呼ばれる”のだ。それも、二か月に一回のペースで、何の前触れもなく)、こちらの世界は、”こちらの世界の自分”がいつも通り日常生活を送っているので問題は起きない。ワタルはいまだに不思議な感覚がしていたが、自分という一つの存在が二つに分身して違う場所で同時に活動しているイメージで自分を納得させていた。

 片割れとはいえ、精神が体験したことは肉体が体験したことだと誤認するので、肉体的疲労とまではいわなくとも神経的な疲労を感じていた。

 冷蔵庫から取り出したビールをグラスに注ぎ、それを一口のどに流しこむ。それを合図に彼の肉体の強張りはほぐれ、思考はかえって鮮明になった。

 <浮世>とは世界だ。それぞれがふわふわと浮かぶ世界。『言い得て妙だ』とワタルは思った。<浮世>は、一つだけでは空間に浮かぶ風景画にすぎず、完全な世界になるためには連続していなければならない。世界に息を吹き込み、一つの生命たりえるためには<浮世>同士がひずみなく調和し、接合していなければならない。その壮大な繋がりは始まりなく終わりなく螺旋状を描いてとある方向へと伸びている。そう、それこそ”蛇”のように。また<浮世>を別の見方で例えるなら、人間は大きな川の向こう側にある対岸という人生の終局に向かって、無限に連なる<浮世>という石を足場にして一歩一歩進んでいるようなものだ。人の人生は、地球の歴史は、この限りない石を一個ずつ「選択して」進んでいる。できるだけ大きく、平坦で、着地しやすい石を選ぶ。脆くもない、強度のある石を。時に、石が崩れて底なしの川底に沈んでいくことを予期して、選び取る石を変更するよう仕向けたり、その石の性質そのものを変える存在がいる……。それが中村ユイたちだ。改めてワタルは彼女の姿を心に浮かべた。そして長年何度も浮かび上がっては消えた問いを、また頭に浮かべた。『彼女たちは一体何なんだ……? 悠久の昔、人類の誕生から我々を見守ってきた天の使い ―― 天使 ―― だとでもいうのか?』

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