第18話 ”八叉の守り人”

 兵動ワタルは見慣れたディスプレイとキーボードが前にあるのを見て、安堵した。先ほどまで激しく上下していた胸は同一人物とは思われないほど平静を取り戻しており、指はキーボードの上でほとんど機械的に動いている。普段通り、世界と彼とが徐々になじんでいくのが感じられる。この報告書を今日中に仕上げなければいけないから、そのために昼休み返上でずっとパソコンの前に付きっきりだったのを徐々に思い出した。

 しばらく書類作成に時間を費やしていたが、そのうちワタルは打ち込む手を止めた。いつもなら「向こうでの出来事」は出来るだけ思い出さないようにするのだが、今回だけは事情が違った。

 再び心拍数が上がってきた。ワタルは人気のない薄暗いオフィスにあるデスクに一人だった。キーボードから手を離し、静けさのみがあたりを占めていた。”あそこ”よりはマシだ、と思った。今ワタルの胸が騒いでいるのは、嫌になるくらい静寂に満ちた場所、<迷いの間>で”時空の彼方へと消えた二人”のせいだ。さらに、立て続けに致命的なミスをした自分に対して「上」からどのような処理がされるのかという未知なる不安のせいだ。三十年近く世界の秩序を守り、バランスを整えてきたが、つい数分前 ―― といってもこれは意味のない単位だが ―― に信じられないものを見た。<異常体>が自ら<迷いの間>を脱出するなんて初めてだ。

 これはありえないことだ、とワタルは思った。そもそも、あの青年をあの時点で正常に送り返せなかったこと自体がおかしい。いつもの手順で、注意深く一家相伝にて伝えられて来た方法で、彼を元の<浮世(うきせ)>に返したはずだ。多少のポイントのズレはあったとしても、違う<大河(たいが)>にジャンプしてしまうなど考えられない。前代未聞だ! 

 彼を別の世界に帰してしまってからというもの原因を考えてみたが、あの素性がいまいち掴めないスーツの女上司、中村ユイが言っていた通り、あの”青年自体”に問題があるのだろう。彼が特殊すぎるのだ。彼と、彼が手を引いていた女が<迷いの間>のドアを通って別の<浮世>にジャンプした時に、起きている一連の異常現象が彼によって引き起こされているのだと確信した。自分のような人間でもなく、本部の人間でもない一般人が、”止まった世界”であるはずの<迷いの間>から扉を探してあて、さらにそれを開いて別の時空にジャンプするだなんて只者であるはずはない。

 大量の報告書を書き終え、データを保存し、帰り支度を始めた。もし、「上」から制裁が加えられるとしたら、この<浮世>から飛ばされるのだろうか。ゾクッと湧き上がってくる恐怖を感じながらワタルは考えた。二十歳の頃に、それについて父親から少しだけ聞いたことがある。「我々とコンタクトを取る組織の者よりも数段上の、次元で言えば『神』にあたる存在から『便り』が届くだろう」と。何世代にもわたってこの家業に関する文書が受け継がれてきているが、これは紙の記録が残っているわけでもなく、ささやかな言伝ででしか伝わっていない。

 この仕事に目覚めてからというもの、これまでほとんど失敗という失敗はしたことがないのに、一体何が起きているんだ、と彼は思った。

 ワタルが三十年にわたってやってきたこの仕事 ―― 表の世界で言う仕事とは一線を画すが ―― を行う者たちを、兵動家は<八叉(やちまた)の守り人>と呼んで来た。正確にどれほど昔からこの仕事を受け継いできたのかは分からないが、文書によると最低でも八百年は遡れるらしい。我々の使命は、無数に連続している<浮世>同士の間にある<迷いの間>に紛れ込んだ人間を送り返してあげることだ。その<迷いの間>とはワタルが先ほどまでいた、あの赤い世界のことだ。昔からそこに迷い込む人間が毎年何人も出ているので、それを密かに一家の使命としているのが兵動家なのだ。父親から聞くところによると、何百年も前にその家業を村中に知られてしまい、村民全員から狂人のレッテルを貼られたあげく迫害の目に合ってしまったらしく、それ以来、どういった理由があろうと口外厳禁が一家の金科玉条のような決まりとなっている。

 <迷いの間>が死んだように止まっているのは、文字通りその世界が活動をしていないからだ。それは例えるなら映画のフィルムのようなものだ。一つのフィルムのうち、連続しているそれぞれの画が<浮世>と呼ばれている(あの青年にはこれを数珠に例えて説明したが同じようなものだ)。一つの画では映画にならないように、<浮世>が数えきれないほど繋がってはじめて世界は動き出す。我々の世界の「現在」は常に「可能性」と「選択」に満ちているが、<迷いの間>ではより一層その性質が明らかになる。あの青年がドアを開けて別の<浮世>に行ったように、”止まっているからこそ”、様々な世界に行き来しやすくなっている。つまり、普段の生活で<浮世>が問題なく物語が動いている時は果てしなく続く一本道を車で走っているようなものなのだが、(ワタルが持っている装置で)停止させてあの赤い世界が現出した時は、その一本道に無数の交差点ができ、右折や左折などの曲り道がとても多くなるのだ。普段の生活における「選択」の背景にあるものが、ここでははっきりと手に取るように見えると言ってもいいだろう。だが、それが見えるのはワタルたちのような使命を持っている人間たちか、中村ユイたちのような高次元の存在だけだ。

 また、<迷いの間>は、近くにある<浮世>の影のような世界のため、紛れ込んだ人が直前に街中にいればそれを反映するし、山の中にいてもその風景を残したまま、奥行きのある「一つの静止した画」として現れる。

 ワタルは上着を着て、ひっそりと静まり返った会社を後にした。駐車場へ向かう途中、ふと振り返って先ほどまで自分が働いていた社屋を見た。深夜の闇の中でも分かるほど真っ白に塗り固められ角張った建物。その背後にある、ドーム状になっており丸みを帯びた巨大な施設。日々、この要塞のような厚い壁の中で、核融合によって膨大な電力が生み出されている。いまこの時代の、この文明の一個の象徴のような施設だ。<迷いの間>から帰ってきた後は、できるだけ彼は自分の毎日の職場であるこの建物を眺めるようにしている。はじめてそこで帰るべき世界に帰ってこれたのだと思えるから。

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