第5話 新しい目覚め
目が覚めた。
天井と壁が見える。
目だけを動かしてゆっくりあたりを見回した。
いつもの寝室だ。
ミノルはボーっとした頭のまま、しばらくまっすぐ天井を見つめた。
『夢……か……』
靄(もや)がかかったおぼろげな映像がゆっくりと彼の中で動き出す。
『今までのが全て……夢?』
遅れてミノルの中で信じられない気持ちが広がっていった。
『さっきまで見てきたもの、聞いてきたもの、味わってきたものが、ぜんぶ夢の中の出来事……?』
パジャマを着ている自分の腕をさすりながら、今は頭の中の世界ではなくまぎれもなく肉体を持った物質としての世界にいるということを確かめた。この”重み”、確かに現実だ。ということは、やはりさっきまでのは夢だったのか。
今、彼の頭に浮かんでいる映像の中で、覚えている限りのものを遡れるだけ遡ってみた。いくつかの場面しか思い出せないが、時間にして優に年単位の厚みがある。それどころか子供の頃からの記憶も浮かんでくる。これは確実に自分が実際にたどってきた子供時代ではないと言えるものだ。だから、夢だと思える。しかし夢の中だというのに、子供の頃から大人になるまでの期間を経たという“実感”がある。
この“実感”にミノルは戸惑っていた。
子供のころ一人ぼっちで公園で砂遊びをしていた時、小学生の時に自転車で軽い事故を起こして驚いた時、中学の卒業式の時に桜の木の下で女子生徒に告白された時、そして、高校時代にとても仲が良かった男子と女子と一緒にトリオを組んで、文化祭でコントを披露し、観客席から聞こえる爆笑に心底ほっとした時……。
これら全てのシーンに“実感”が伴っていることに戸惑った。
特に高校生の時に出会ったその二人の男子と女子には強い結びつきを感じていた。おぼろげな記憶の中でも依然として彼らとの思い出の印象は残っている。それなのに、彼らの名前と顔だけが思い出せない。ピースがそこだけ抜け落ちた未完成のパズルを見ているような心地だった。
ミノルは寝起きの頭を覚ますために、ベッドから起き上がって、窓際まで歩いて行った。起き抜けにベランダに出るのが彼の朝の日課だ。
扉に手をかざす。すると、「プシューッ」と空気が一気に抜ける音がした。空調によって室内は常に過ごしやすい一定の気温が維持されているので、その温度を保つために部屋は隙間なく密閉されている。夏や冬の気温の変動には完全にシステムによってコントロールされている。ドアは自動で、そのままゆっくり右に動いていく。徐々に開いていくとともに、せき止められていた日の光と初夏の湿気を含んだ温かい空気を身体に浴びてミノルは少しずつ頭が冴えてきているのが分かった。
水色に薄くエメラルドを解かし込んだような色の空と眩しく照りつける夏の太陽。ベランダに出て、これら二つを真上に見上げながら思いっきり伸びをするのが毎朝の日課だ。昨日と変わらず今朝も街は元気に輝いている。いつもやるようにツタが絡んで植物色に染まった手すりにもたれて遠くを見やった。
高くそびえるビル群の先で比べ物にならないほど高く鋭く天を突いて立っているのは東京のシンボル「ツリー・オブ・ライフ」だ。この建物は壮大で、今自分がいる高層マンションから見ても見上げる高さなのに、下の方まで規模が巨大だ。まるで山の裾野のように下に行くほどこの建物の白い肌が横に広がっている。その裾の広さは数百メートルにも及ぶと言われている。これだけの規模の建築物だから、東京だけでなくこの日本においても象徴的な存在感をもつのは当然だった。その形状からして倒壊する可能性はほとんどゼロだろうなとミノルは思った。
またそれだけでなく、空へ向かって伸びているのと同様に、まるで根っこのように地下にもこの一部が続いているらしい。彼も詳しく知っている訳ではないが、その理由はこの巨大な建物が「この国のエネルギーの拠点」だと言われる所以らしい。というのも、この「ツリー・オブ・ライフ」は地下と大気中の両方からエネルギーの素となるものを吸い上げ、さらに建物表面から得られる太陽光の力を混ぜ合わせて、電気エネルギーを生み出しているという。植物の光合成を科学的に利用して、無尽蔵の電気を国中に送り出している。だから、その名の通り「生命の木」というわけだ。
ミノルはベランダの数十メートル先にある、夏の日差しを受けていっぱいに生い茂る”本物の”植物の方へ歩み寄った。ここで栽培しているいくつかの野菜や果物に自ら水をあげるのも、彼の朝の習慣の一つだった(水やりもベランダの清掃も全部自動で済ますことができるシステムがこのマンションには備え付けられているのだが、ミノルはあえて自分でやりたがった)。
このマンションは「空中庭園」のようになっており、高層マンションではあるが一階から最上階まで、広々としたベランダが日の光の下にせり出している。各々の階のいずれにも果物を実らせたいくつもの木々、青いクッションの様な生垣、麗しく咲き並ぶ花々など、多様な植物が生えており田舎で見られるような自然の光景が、上から下までのベランダに並んでいる。こういった光景は東京に限らず他の都市においても何年も前からあったものなので、別にミノルのマンションだけが特別というわけではない。
ミノルは植物たちへの水やりを終えて、室内に入った。スマホで時間を見て十分まだ時間があるのを確認した。軽く自分で朝ご飯を作りながら、今日の撮影シーンを脳内でおさらいした。昨夜、監督から言われた今日のスケジュールはちゃんと覚えていた。まず、朝一発目は高校の貸切校舎での、休み時間のワンシーンだった。(年齢の割にはそこまで老け顔に見えずミノルは自分でもほっとしたのだが)学ランを着て、クラスメートである主人公のセイヤと何人かの友人たちと弁当を食べながら談笑するシーンだ。そこでミノルは様々な都市伝説を挙げながら、とある廃墟の中にタイムスリップできる不思議なドアがあるという話をセイヤたちに饒舌に語る。話をもとにセイヤたちはその秘密のドアをくぐり、石器時代にタイムスリップする。その時代に出会った美しい少女と恋に落ち、次第に国の戦に巻き込まれていくというストーリーだ。ミノルの役は小さいながらも主人公たちを異世界に連れていく重要なキーパーソン的なキャラクターというわけだ。
朝食を終えてコーヒーを飲みながらリラックスしていたところ、携帯にメッセージの通知が来た。マンションの一階に撮影所へ向かうワゴンが到着したようだ。
今朝見た夢がいまだに脳裏で息づいているような感じがして奇妙な心地がしたが、ミノルはいつも通り玄関をくぐりぬけて俳優の仕事へと向かった。
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