第4話 黒い作業着の男
と、思った時には体が動いていた。
『誰かを探さなきゃいけない』
走りながら周囲に目をめぐらした。
『誰か助けてくれる人を見つけなきゃ……』
訳の分からない状況に、彼は本能のまま走り出していた。
来た道を戻り、下通の大通りに着いた。そしてさらなる衝撃が彼の頭を殴った。
あれだけ人という人に埋め尽くされていた通りに、一人もいない。
日頃の活気が、無かったことにされているかのように、物音ひとつ聞こえてこない。
もはやミノルは泣き出しそうになっていた。男だから、大人だから、泣いてはいけないという常識は、その湧き上がって来るものをせき止めるには弱すぎた。
今にも涙が目に滲んでこようとするその瞬間、近くの店から扉を開ける音が聞こえた。ミノルは無心でその方へ駆け寄った。とにかく誰でもいいからこの不可解な状況を共有できる人がいて欲しかった。
無人の喫茶店の扉から出てきたのは、全身黒づくめの服を着た頭の薄い五十代くらいの男性だった。首元からくるぶしまで、まるでさっきまで自動車の整備でもしていたかのような作業服を身に着けていた。
ミノルは彼の目の前で溜まっていた感情が溢れ出た。喋りながら自分の声が震えてしまっているのが分かった。
「なんだか、さっきからおかしいんです! 気づいたらみんないなくなってるし、空は真っ赤だし! もう一体何が起きてるのか……」
すると、彼の反応はミノルにとっては思わぬものだった。
「ああ、もう大丈夫だよ、安心して。今から元の世界に返してあげるからね」
ようやく人を見つけてほっとしていたミノルは、この予想外の返しに思考が全く停まってしまった。
「え……元の世界? どういうことですか?」
「元の世界は元の世界だよ」と言いながら男性はおもむろにポケットに手を突っ込んで続けた。
「つまり君がさっきまでアルバイトに行こうとしていた世界。ここは来ちゃダメな世界だから君を戻すんだよ」
ミノルは目の前の中年男性の言っていることが何一つ分からなかった。
「はい、それじゃあ目を瞑って、私が十数えるうちに……」
「ちょ、ちょっと待ってください! 何が起きてるか説明してください! あなたはこの赤い世界について、何か知ってるんですか?」
「知ってるよ。だけど教えたところでなぁ」
「教えてもらわないと、今自分が置かれてる状況に納得ができませんし、目なんて瞑れません!」
男性は少しため息をついて言った。
「分かったよ。ただ、教えたところで信じないだろうし、たとえ信じたとしても元の世界に戻ったら『夢だった』で終わるだろうね」
ミノルはその言葉にとっさに口をはさみたくなったが男性はすぐに続けた。
「世界は数珠のようなものなんだ。
物語の内の一つひとつのシーンが無数に連なって世界は動いている。
たまにその数珠の連なりからはみ出してしまう人がいる。
それが君だ。
君たちは毎日、何不自由なく平穏な日常を送っているかもしれないが、その裏には、君たちが信じられないほど広くて複雑な世界が広がっているんだよ。
目で見たり聞いたりするものだけが本当じゃない」
「え、『広くて複雑な世界が広がってる』って、それってパラレルワールドみたいなもんですか?」
「ざっくり言うとそうだな。この無人の世界はそのパラレルワールド同士の隙間にあると言ってもいい」
ミノルは視線を落としながら、映画や小説の中だけの話だと思っていたものをいきなり事実だと言われてどうしたらいいか分からなくなっていた。頭の整理が全く追いつかなかった。すると、抗えないようなはっきりした口調で「教えられるのはここまでだ。さ、今から君を帰すからね。目を瞑って十秒数えて」と言われたので、それに素直に従うしかなかった。
一、二、三、四……。
何が起きるか分からない中で目を瞑ったままでいるのは怖さがあったが、次第に襲ってくる眠気に思考が揺らいだ。
五、六、七、八……。
眠気はどんどん強まり、抗いようのない強さにまでなった。
意識が遠のく中で、目を瞑る瞬間に中年男性の胸元に見たものが瞼の裏に残っているのが分った。
星と蛇。四方八方に光を投げかける星の上に、こちらへ向かってとぐろを巻いている蛇。この異様な模様をした金色のバッジが、黒地の作業服の上で輝いていた。
九、十。
その瞬間、彼の意識は飛んでいた。
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