第3話 血のように赤い空

 日が傾きかけてきた夕方、ミノルはアルバイト先の居酒屋に行くために再び街中に来ていた。

 この下通(しもとおり)はいつ来てもたくさんの人が行き交っており、今みたいな帰宅ラッシュというわけでもない中途半端な時間帯でも通りは賑わっていた。授業が終わった中学生や高校生の集団があちこちで笑い声を上げながら楽しそうに帰っている。

 スーパーに買い物に来た中高年の女性たちの間を縫って、ミノルは足早にバイト先へ向かう。歩行者天国だというのに平然と自転車で通行している男を横目で睨みつけながら、横の路地へと曲がる。ここへ入ると、下通とは違って屋根がないので通りの騒がしさが青空へと突き抜けて少し静かになる。しかしその代わり歩行者天国ではなくなるので、狭いながらも時折通る車に注意しながら歩かなければいけなくなる。

 ここから十分ほど歩けばバイト先に着く。

 ミノルは朝から糸が身体に絡みついたように一つの考えに囚われていた。

 彼はこの数年間でたくさんの女の子と付き合ってきた。可愛い系の子もいれば、美人系の子もいた。素直な子もいれば入り組んだ子もいた。理想の女の子を探してあれこれと手を付けていった。だから、人並みかそれ以上には恋愛の経験は積んできたはずだ。そしてそのどれもが上手くいっていたはずだ。それなのに今、彼の目はそれよりもずっと過去の映像に焦点を結んでいた。

『なぜあの時、カレンに告白しなかったんだろう』

 この言葉は今日だけでもほとんど白昼夢のように何度も頭の中で浮かび上がった。また、カレンの顔が思い出されるたびに、次の言葉も伴って浮かび上がった。その言葉の裏にある思いは、繰り返されるたびにだんだんと澄んでいった。

『カレンは可愛いという感じでもない。正統派美人というわけでもない。目の覚めるような憧れを感じるわけでもないし、性的に興奮したことはほとんどない。クシャミの仕方も下品だし、女の子らしい甘え方をしているところなんて、一度も見たことがない。

 僕はこれまでいろんな女の子と出会って来た。それなのに今ひたすらカレンのことを考えてしまっているのはなぜ? 

 夢のために未来に向いていたベクトルが今、過去に向いてしまっているのはなぜ?

 異性やら恋愛やら理想やらを全て通り越して、ただカレンを求めてしまっているのはなぜ?

 カレンが今まで出会った中でまぎれもなく一番僕に合う人だと信じて疑わないのはなぜ?』




 アルバイト先の居酒屋に着いた。裏口の扉に寄って鍵を開けようとした瞬間、得体の知れない違和感に手が止まった。

 さっと空気中の物質そのものがごっそり変わったような、そんな感覚。

 元々ここは薄暗く、人通りが頻繁にあるような場所ではないので、より一層気味が悪い感じがした。早く中に入ってしまおうと鍵をドアノブに挿し込もうとした。しかし、挿さらない。もう一度、鍵穴をよく見て押し込んだ。同じだった。まるで穴そのものがコンクリートか何かで塞がれているように、少しも鍵が前に進まない。ミノルの頭の中は「?」だけになった。

 試しにドアノブを動かそうとしたが、びくともしない。これも隙間という隙間を溶接されたような固さだった。ミノルは訳が分からなくなり、そのドアから離れた。

 薄暗い場所を抜け、通りのアスファルトに足が着いた時、先ほどよりも強烈な違和感を覚えて素早く周りを見渡した。

 何もない。それがミノルがまず最初に感じたことだった。通りに並んでいる店や看板などの風景はいつも見慣れている通りだ。しかし、それ意外が何もない……。

 人が一人たりとも見えないどころか、人の気配そのものがが全く掻き消えていた。人間どころか生物そのものが全て、ミノルを残して地球上から消えてしまったような感じ。

 ミノルは感じたことのない、耐えがたい物寂しさに気が動転して、全く知らない人でもいい、とりあえず誰か人を見つけなければと思った。そして大きな通りを目指して数歩、歩き出すと、先ほどまでは視界に入らなかった「異変」に気づいた。時間帯を考えればおかしくないかもしれないと一瞬考えた。しかしそのレベルをはるかに越えている。ミノルは空を仰いだ。

 赤い空。見たこともないほど赤い、空。

 血のようにはっきりとした赤色。絵の具の赤色に少し黒色を混ぜた時のような深みがある色。

 ミノルは腰が抜けてその場に崩れ落ちそうになるのを寸前でこらえた。

 こんな空は生まれて一度も見たことがない。これはおかしい。ここではっきりとそう思った。

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