最終話 焼け跡と避難所と私達のこれから ④
少しずつ上がってきていた室温は、明らかに生存に支障をきたす段階に差し掛かりつつあった。
頬を伝う汗をそのままに、店舗地下室からの脱出を諦めかけていた私達を襲ったのは、外部へ続くもう一つの出入口に備え付けられていた鉄扉だった。
「扉が―――うっ!?」
鈍い破壊音を立てて扉が枠から外れ、ちょうど真向いに位置にいた私達の方へと飛んできたのだ。幸い直撃するようなことは無かったものの、目前の石造りの床に叩きつけられた鉄扉が立てたけたたましい音に反射的に耳を塞ぐ。
頭の中をかき混ぜられたような衝撃が収まるのを待ってからゆっくりと顔を上げると、目の前には―――
―――黒く身軽そうなワの装束に身を包んだ小柄な少女が立っていた。
少女の背後には先程まで閉ざされていた薄暗い通路が覗いている。「恐らくは出口から入ってここまでたどり着いたのだろう」と、頭では理解をしたものの、余りにも思いがけない展開に私はへたり込んだまま声も出せずに固まってしまっていた。
当の少女とは言えば、入って来た時の若干前かがみな姿勢のまま、静かに私達を見つめている。ただ、目元までを覆われたせいでいまいち伺えないその表情の中で、唯一こちらから確認できるその黒い瞳に、僅かな安堵を浮かべていたような気がした。
しかしその感情も、しばしの間閉じられた瞼が開いた時には元の静謐な黒瞳に戻っていた。
「二人とも、ケガは無い?」
「え、ええ」「ああ…、問題ない」
次いで開かれた少女の口から出た言葉に、私達は未だ引かない動揺を引きずりながらもなんとか答える。
それを聞いた少女は一つ頷き、
「それでは、そこから脱出します」
店の一階に続く出入口を指してそう口にした。
「脱出…ですか。嬉しい話ですが、上への道は恐らく瓦礫で塞がれています。時間はかかりますが、その地下道を通って…」
「それだと外で待ってる彼女達が危ない。だから、今から上の瓦礫をどかして最短での脱出を目指します」
「彼女達って、まさか…」
「ちっ、あいつらまだ残ってんのかよ」
ユリアとレオナがまだこの火災の中に残っている。その事実は私達に、事も無げに『瓦礫をどかす』と言う少女の言葉よりも大きな衝撃をもたらした。
「何?」
「…いえ、何でもありません。そういう事なら急ぎましょう」
「分かった」
その反応は意外だったのか、少女が言葉少なに疑問を投げかけてきたが、私が先を促すと素直にそれに従って魔術を発動する姿勢になった。
直立の姿勢で両の手を複雑に組み合わせ、印を結びながら小声で何事かを唱え始める。それに従って室内の空気が流れ始め、周囲から無数の水滴が少女の手元へと集まっていく。
やがて少女が組んでいた指を解いてそっと開くと、その掌の上に小さな水流が渦巻いているのが見えた。
『…我が意に従って、その力を解き放て』
そう言って締めくくると、水流の乗る手を地下室の天井に向けて掲げた。すると、その小さな水流は少女の手を離れてゆっくりと上昇し始め、遂には天井に壁へと染み込むようにして吸い込まれていった。
少女も含めた我々はそれからしばらくの間黙って天井を見上げていたが、
「抜けた。―――少し揺れます」
何かに気が付いたように瞬いた後に、少女がそう口にする。するとその言葉の通りに静かな揺れが起こり、それが次第に強くなっていく。外からは何やら固そうな物があちこちにぶつかるような激しい物音が断続的に聞こえてきており、これで大丈夫なのだろうか、という不安が少しずつ大きくなっていった。
しかしそんな不安もつかの間、唐突に振動と物音が途絶えて我に返る。
「終わりました」
同時に、少女もこちらを向いて脱出への障害が取り除かれたことを伝えてくる。
「…どうしますか」
「どうするったってお前、見に行くより他に無いじゃねぇか」
恐る恐る確認する私に対し、ゴルドンの答えははっきりしている。改めて少女に視線を送るが、問題ない、という風に頷いてくるだけだった。
「ったくしゃぁねぇな!いっちょ俺が見てきてやるよ!」
私の煮え切らない態度に、ゴルドンは大げさに頭を掻きながらそう言うと、頭上にある蓋に手を当て背伸びをするようにして押し開いていく。と同時に、開いた扉の隙間から湿り気を帯びた温い空気が地下室へと流れ込んでくるのを感じた。
「確かに…周りは安全っぽいな。…お?」
恐る恐る扉の隙間を広げてそこから見える範囲の安全を確かめていたゴルドンだったが、何かに気が付いたように声を上げると、
「ちょ、ちょっとゴルドン!?」
私の静止が届くよりも先に、彼は出入口の淵に両手をかけて一気に外へと飛び出した。慌てて出入口の近くへ駆け寄ると、耳馴染みのあるよく通る声がゴルドンの名を呼ぶのが聞こえた。次いで、軽い足音もがこちらへと駆け寄ってくる。
その音に誘われるように開口部から外を見上げると―――
―――別れた時に比べて随分と煤けてしまったユリアとレオナが、目に涙をためながらこちらを見下ろしていた。
☆
「地下室の扉…。あそこから逃げるつもりだったんですねぇ」
最後まで私の話を聞いたユリアは、そんな物もあったな~という風に視線を動かしながら感想を漏らす。
「そうなんです。だから言ったじゃないですか、ちゃんと脱出するから先に逃げてくれって」
「いやいや、あの状況じゃそんなこと考えてる余裕無いでしょ。ちゃんと言ってもらわないと」
「それは…はい、レオナさんの仰る通りです。それに仮にきちんと伝えられていたとしても、勇者のお仲間だというあの子が来てくれなかったら助からなかったでしょうしね」
言いながら、私は地下室があるであろう剥き出しになった地面に目を落とした。押しても引いても、蹴り飛ばしても開かなかった地下室の扉。あれが行手を阻む限り、脱出が叶うことはなかっただろう。
「店が跡形も無く消し飛んだ経緯は分かった。で、話に出てきた貴重品ってのは今はどうしてるんだ?」
「まだ私が持ってますよ。肌身離さずにね。ーーーと、そうだ忘れてました」
背負っていた背嚢を揺らすことでその在処を示していた私だったが、ふと思い出したことがあったので、ゆっくりとそれを下ろして口を開いた。
「実はユリアさんに渡さなきゃいけない物があったんです。色々あったので忘れていました」
「私に?何か預けたりしてましたっけって……え?」
取り出された細長い木箱を受け取ったユリアの表情が固まる。ゆっくりとその蓋を開けると、中にはユリアの相棒たる
「………何、で」
箱を地面に置き、慎重な手つきで箱から取り出した楽器を見るユリアは、言葉の端を震わせながらも何とかそれだけ口にする。
「ユリアさん、練習で使い終わった後そのまま部屋に置きっぱなしにしていたので。念のため地下の金庫に入れておいたんですよ」
所詮は高校生の使う楽器と思うなかれ。ユリアの持つヴァイオラは彼女の父親が娘の誕生日にと買い与えたそれなりの年代物である。そして何よりも、音楽を始めてからずっと苦楽を共にしてきた大切な相棒なのだ。
「…諦めてたんです」
手元のヴァイオラにじっと視線を注いでいたユリアが、小さな声を漏らす。その言葉には早くも嗚咽が混じり始めていた。
「お店に置きっぱなしになってたことには気付いてました。でも、お店にもすぐに火が回っちゃって。取りに行くなんて絶対に出来ないし…」
「そうだな。ユリアの判断は正しい。炎上してる建物に突っ込むバカは1人いれば十分だよ」
「あっはは…」
やれやれと首を振りながら私を揶揄するゴルドンの言葉に、ユリアは少しだけ笑顔になる。
「とは言え、私がユリアさんの楽器を助け出すことが出来たのも様々な幸運が重なった結果です。本当に、運が良かった」
「…そうですね。でも、店長が取って来てくれなかったらきっと助かりませんでした。それも間違い無い事実です」
そう言ってユリアは私の正面に立つと、めいっぱいに涙を溜めた瞳をまっすぐとこちらに向けてくる。
「ありがとうございました」
礼と共に、深く頭を下げた。
「私の夢を守ってくれて、本当にありがとうございました」
これまでに見たことのない彼女の真摯な姿に一瞬返す言葉を失うが、
「ーーーいえ、私もユリアさんのヴァイオラを守ることができて良かった」
どうにかまともな返事をすることには成功したと思う。
「…はい。私、一生懸けても絶対…うぐ…このヴァイオラで、音楽家になります…!うわぁぁぁ……!」
私の返事を聞いて緊張の糸が切れたらしいユリアは、ヴァイオラを抱え込みながら大きな声で泣き始めた。
場がひと段落着いたと見たのか、それまで黙って見ているだけだったレオナがユリアに近づいていってそっと抱き寄せた。抱擁されたユリアはレオナの胸に顔を埋めてますます泣きじゃくる。
「かっこつけすぎ」
そんなユリアの頭を優しく叩きながら、レオナは視線だけをこちらに送りつつそう言った。恐らくは彼女なりのねぎらいの言葉なのだろう。
彼女らの様子に自然と笑みが溢れてしまうのは、彼女の涙が安堵と喜びから来るものだと理解できたからだ。
「ま、命賭けて取りに行った甲斐はあったじゃねぇか?」
「ーーーですね」
私にだけ聴こえるようにそっと呟いたゴルドンに頷いて返す。
たくさんの幸運に助けられた末の結果ではあった。それでも、あの火災の中で決断した彼女の未来を救うという判断は間違っていなかったのだと確信した。
☆
「そうだ、良い機会なのでハンス、残りの荷物もしばらく預かっておいていただけませんか?この環境です。持っているだけでもなかなか気が休まらなくて」
しばらくしてユリアの泣き声が小さなしゃくり声程度になるまで落ち着いてきたところで、私は背嚢に残った店の財産をハンスに示す。いくつもの小さな木箱に入っているのは高額な宝飾品の類だ。いざという時にすぐ持ち出せるようにと考えて貯蓄のほとんどをこのような形で保管していたのだが、まさか役に立つ日が来るとは思いもしなかった。
「それは良いが…。小僧、お前はどうするんだ?さっきの鍛冶屋じゃないが、トリスでもお前らのことは預かれるぞ?」
「そうだよデニス。ハンスが嫌だって言うんなら俺の工房でも…」
「ええ、分かっています。実を言うと、そうしようかとも結構本気で考えていたんですが…」
トリスは王国最大の港湾都市だ。商人の経験とハンスも含めた人脈を使えば、比較的早期に生活を立て直すこともできるだろう。それは、今の過酷な状況を考えれば相当に魅力的な選択肢だ。
それでも、
「やめることにしました。この更地になってしまった店を見た時に、そう決めたんです」
「ーーーーー」
そんな私の言葉を聞いて、ハンスや他の皆もその先を促すように黙っている。
「実を言えば、こうして店を見に来ることも余り乗り気ではなかったんです。跡形も無くなっているということは、避難の際の出来事からして予想できていましたからね。積み上げてきた物が全て失われている光景を目にして、再び立ち上がるだけの気持ちを保てるのかどうか、全く分からなかった」
これでも、両の手で数えられる程度には続けてきていた店だ。安定した数のお客さんを得るまでの努力と、そこから模索してきた私なりの商売の形を体現してきた。少なくとも、あの火災が無ければ死ぬまで守って行けたという自負がある。
けれど、そんな小さな自負も、あの『雄牛』は容赦なく焼き払っていった。後に残ったのは、それなりの広さの土地とそれなりの額の財産だ。これを持って私はどうして行けば良いのか。先の展望のあまりの暗さから、私は必死に目を逸らしていた。
「だから、あれだけ避けていた現実を前にしてこうも単純に答えが出てしまったことには、正直呆れています」
そこまで話して、一度呼吸を整える。
「私は、この手で店を再建します」
もはや誰に聞かせていうわけでもない。これは私自身へ向けた表明だった。
「一から。前の店よりももっと大きくて、もっとたくさんのお客さんに来てもらえる店を、必ず…」
言いながら、こちらに耳を傾けているユリアやゴルドン、ハンスといった面々を見ていく。
「だから今はまず、避難所に残って焼け出された人達の手助けをしようと思います。幸い、仕事には事欠くことはないですし、私の経験と人脈を活かすことが出来るでしょう。そこからきちんと基盤を立て直し、いつか来る復興に向けての準備を始めていくんです。そして…っ」
続けていた不意に途切れる。いや、最後まで続けることが出来なかったのだ。なぜか、声が詰まって閉まって。
「…そして、えーっと、ですね」
どういう訳か、続く言葉が出てこない。少し焦りながらも声にしようとするのだが、何か違うものが溢れてきてしまいそうで、なかなか形になってくれなかった。
そんな私の両肩を、いきなり大きな手で掴む者が現れた。この中でそんな真似をするのはもちろん…
「気に入った!!!」
鼓膜が破れるかというほどの至近距離から声を浴びせてきたハンスだった。
「流石にこのワシが見込んだ男なだけはある!その意気、実に良し!!」
「は、はい。それは何より…です?」
あまりにも予想外の方向からの衝撃に、それまで抱え込んできていたはずの重石はどこかへ飛んでいき、あれだけ出すのに苦労した声もあっさりと出てしまった。
さらに、呆然としている私を知ってか知らずか、背中をバシバシとかなりの力で叩いてくる。
「安心しろ。親父としても商人としても、お前の商売に全力で乗っかってやる」
「いや、貴方は師匠であって親ではないと何度言えば…」
「ガッハッハッ!細かいことは気にするな!よし、そうと決まればとっとと帰るぞ!ワシらが連れてきた連中も是非我が愛弟子に采配してもらわねばな!!」
そう言ってとびきりの笑顔を見せると、豪快に笑いながらもと来た道を歩き出した。
「え、いや、ちょっと待ってください!?もう帰るんですか!?」
頼り甲斐のある師匠の急な決断について行けず、反射的に呼び止めるような姿勢になるも、彼が止まる様子は無い。
「デニス。とりあえず来てる人達を紹介しないとね」
ハンスに続いてリカルドも瞳を輝かせながら意気込みを伝えてきた。
そのまま駆け足で去っていくリカルドを呆然と見送っていると、今度は背中を強烈な衝撃が襲う。
「いったい!?」
「おし、いっちょ働くか!おいデニス。残るって決めたんならどんどん手伝わせるからな!完全復興までの長い付き合いになる。覚悟しておけよ?」
景気の良い音を響かせながら、言葉のわりには普段よりも優しげな表情でゴルドンが声を掛けてくる。
「トリスでの長期休暇は無しか。ざーんねん。ま、とりあえずこれからもしばらくよろしくね、店長。面倒な仕事は任せるよ」
彼に着いて行くように歩き出したレオナは、通り過ぎ様に子首をかしげて余裕の笑みを浮かべながらそんなことを言ってくる。
そして、仕舞いには私の服の裾をユリアが遠慮がちに引き、
「店長さん、私、頑張りますから!店長さんも一緒に、ね?」
まだぎこちないながらも、泣き晴らした顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
私が一人呆気にとられている内に、良き友人達は各々に歩き始めてしまった。
残された私はしばらくの間どうすべきなのかと立ち尽くしていたが…
「はぁ…」
一度、大きく息を吐いてみる。そこに僅な笑みが含まれていたことに気がつき再度小さく微笑むと、顎を反らして空を見る。その際に小さな一雫がすうっと頬を伝ったが、別に気にするほどの事でもないだろう。
目の前には、廃墟と化した王都を塗り替えるように青空が広がっている。
「さて…私も行きますか」
誰にともなく呟いた言葉が虚空に消えることはなく、静かに私の胸に焼き付いたのを感じる。
悲しみも喜びも、無理に片付けることなど出来ない。私に出来るのは、自分なりの距離感で向き合いながら、ゆっくりと前に進んでいくことだけだ。
そして、いつか必ず描いた目標へと辿り着いてみせる。王都中央通りギルド横、多くの人と出会い、この先もまた多くの人が訪れるであろう、私の雑貨商に。
それだけ心に留めると、私もまた彼らが進んでいった方へ歩き出した。
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