温もり
宗田 花
❖ ❖ ❖
――神さまなんていない
そう思って12年生きてきた。
今は空しいほどに青い 4月の空の下で芝生の上に寝転んでいる。
暁生の毎日は刺激的で空虚。
咲絵さんにとってはビジネスだ。厄介になっている身としては文句など言えない。天気が良かろうと悪かろうと「分かった」と言って外に出る。時にはジーパンを引っ掴んで、Tシャツを頭から被りながら。靴を持って飛び出すなんて日もある。雨の中ガタガタ震えながらベランダに 2時間いたり。3月終わりの夜は寒かった。
お世話になっているから、咲絵さんの欲求のお世話もする。ベッドの上で紫煙を吐き出しながら咲絵さんが言う。
「爺ぃ相手に感じないのよねー。あんたとは愛も無いし、お互いに楽しめればいいわよ」
あっさりものを言う咲絵さんが男前に見えたからぐずぐずとここで過ごしている。
暁生の過去はすっきりしている。
父は首を吊った。母は暁生の首を絞めて、その後包丁で自分を刺して死んだ。残念ながら暁生は死なず、救命士のお蔭か、せいか息を吹き返した。そして施設で大きくなり、高校は出してもらってその後は『ぷー』だ。
特にいじめられたことも無ければ何かあったわけじゃない。頭は良かったがだからといって何かが変わったわけでもない。今は咲絵さんのヒモだ。
咲絵さんに拾われたのは飲み屋の横にあるゴミ箱のそばだった。ちょっと運が無くて腹も減っていた。飲み屋のお兄さんが捨てたばかりの料理を漁っていた時に声をかけられた。
「お腹減ってんの?」
ファミレスに入って、席に座る前に外に連れ出された。
「あんた、臭い」
腹が減っているのにそれは後回しにされてマンションに連れて行かれた。バスルームに放り込まれてきれいになって出ると着替えは全部捨てられていた。素っ裸で咲絵さんの前に立つ羽目になる。
「あんた、きれいだわ」
髪を切る金も無く、伸ばしっ放し。磨いてみれば 21歳の若者は魅力的だった。
咲絵さんは自分の透け透けのネグリジェを放ってくれた。裸の上にそれを羽織ってキッチンテーブルの椅子でお湯が沸くのを待った。カップラーメンが目の前にある。今度は 3分待つことになった。
「待たなくても食える」
「待ちなさい」
それから咲絵さんが言う通りに暮らすようになった。
「暁生って猫みたい」
「そう?」
「私がベッドに入るとすり寄ってくるでしょ? 私が出すものしか食べないし」
「そうだね。今は咲絵さんの猫でいい」
「そうなさい」
自分が『みゃあ』になれたようでちょっと嬉しかった。ここにいれば『みゃあ』でいられる。
小さい頃のことで思い出すのは両親じゃない。
一応弁明しておくと悪い親じゃなかった。平凡だけどそれ以下にはならなかった。あの時、何があったのかは知らないが。
思い出すのは猫だ。生まれたての仔猫を拾って母に『飼いたい』と泣いて頼んだ。そして父が許してくれて飼うことになった。
名前は『みゃあ』。小さくて温かい命は、「みゃあ」と鳴いてその存在を暁生に知らせた。それから『みゃあ』だ。
家の中で『みゃあ』は暁生と常に一緒だった。ミルクも暁生に催促し、勉強していれば足元にじゃれついた。夜は布団の中に潜り込んで来て、暁生の腕の中で眠った。
『みゃあ』はあの日まで生きていた。なぜか母は自分を刺す前に『みゃあ』を刺し殺した。だから病院で目が覚めてからは『みゃあ』の姿を見ていない。その死骸を見ることさえ無いままお別れした。
思い出すと恋しくなるのは『みゃあ』だ。あの温もりは咲絵さんも持っていない。『みゃあ』だけのものだ。命を預けてくる、そんな温もりだった。
「『みゃあ』、天国で幸せか? でも神さまはいないから天国も無いんだろうな」
今日は青空の中にあの鳴き声が寂しく響く。
「みゃあ」
『みゃあ』は、いた。それがどんな世界なのか知らない。けれど『みゃあ』には自分が暁生に拾われた存在であることが分かっていた。
時々暁生の言葉が聞こえる。
――『みゃあ』、どうしてる?
それが聞こえると温かい気持ちになる。
ある日、『みゃあ』に問いかける声が聞こえた。
――お前には行きたいところがあるか?
『みゃあ』と答える。 「暁生のところ」
――行かせてもいい
『みゃあ』 「なら行きたい」
――その姿では行かれない
暁生がお前の名前を口にした時に終わりだ
それでも良いか?
『みゃあ』 「いい」
そして知らない場所で目が覚めた。
咲絵さんがチャリを買ってくれた。
角を回るときに通りで「あ!」という声が聞こえ、そっちに振り返った時に誰かにぶつかった。
「ごめん!」
前を向いたのと少年が倒れたのは同時だった。
「悪い、ケガしたよね!」
「み、うん、いたい」
「家、どこ? 送ってくよ」
「忘れた」
「忘れた? どこか分かんないの? お母さんは?」
「分かんない」
「困ったな……」
暁生は頭をぽりぽりと掻く。
(僕のこと、覚えてない)
『みゃあ』は良かったと思いながらも寂しかった。『みゃあ』と鳴きたい。でも『みゃあ』だと分かったらそこでお別れになる。
「おいで。血が出てるし。自転車の後ろに乗って」
「うん」
おっかなびっくりに暁生の後ろに乗った。
「だめだめ。俺の体に手を回してしがみついて」
『みゃあ』は震えた。久しぶりの暁生の体。腕を回す。
「しっかり掴まってよ。落ちちゃうよ」
ぎゅっと力を込めた。
(暁生の匂い)
すんすん、とすればその匂いに鼻が包まれる。
「行くよ。手、離すなよ」
「うん」
チャリが走り出す。その感覚に驚いた。自分で走った時より速い。
「速い!」
「そうだろ!?」
走っているから、前から声が飛んでくる。
どうして人の言葉が喋れるのか、どうして 2本の足で歩けるのか分からなかった。でも暁生のそばにいられる。だから考えないことにした。
高い建物の前でチャリが止まる。
「下りて。自転車しまってくるから」
暁生は駐輪場にチャリを置きに行った。少年の手を握ってエレベーターのボタンを押した。咲絵さんは 6階に住んでいる。
「そう言えば名前聞いてなかった。教えて」
(どうしよう…… 僕は『みゃあ』だけど)
「それも分かんないの?」
「うん」
「そうかぁ」
咲絵さんはいなかった。そう言えば美容院に行かなくちゃ、とか言っていた。鍵はもらっているから困らない。
少年を招き入れて座らせた。咲絵さんが救急箱を持っているかどうか知らない。仕方ないから濡らしたティッシュで血の出ている膝を拭う。少年が痛そうな顔をするとティッシュを離した。
「拭いとかないと膿んじゃうかもしれないんだ。もう少し我慢できる?」
「うん。する」
「幾つかな。年は分かる?」
首を横に振る。
「そっか…… さ、これでいい。立てそう?」
支えられて立ってみた。まだ 二本足で歩くのにはちゃんと慣れていない。倒れそうになると慌てて暁生が体を掴んでくれた。
「まだ座ってた方がいいね」
その時にチャイムが鳴った。
「咲絵さんかな」
暁生は必ず覗き穴から外を見る。
「やば……」
自分の靴と少年の靴を掴んだ。
「おいで」
少年を抱き上げてベランダに出る。急いで中に戻って冷蔵庫から適当に 1本ペットボトルを掴んできた。前にここに出た時に喉が渇いて堪らなかったのを覚えている。
窓をきちんと閉めたのは間に合ったようだ。
男が中にいるのは分かっていた。鍵を持っている。咲絵さんがいないといつも帰ってくるまで待っている。男をちゃんと見たことはないが、年を取っていたような気がする。時々咲絵さんも呟いた。
「あの変態爺ぃ」
何度か咲絵さんの頬が赤くなっていたりする。体に青い痣が出ることも。そこに舌を這わせると綺麗な体が震える。そんな時、咲絵さんの手はいつも暁生の頭を撫でてくれた。
「暁生、そばにいなさいよ。あんたがいると寂しくないわ」
寂しいのは嫌だと思うから頷く。すると咲絵さんは微笑んでくれた。
夕方になって少し風が強くなってきた。4月の風はまだ冷たい。
「寒くない?」
「うん」
「こっちにおいで」
暁生に手招きされるままにその腕の中にすっぽり入った。
(あったかい)
あの温もりだ。ずっと待っていた腕の中。そこに今『みゃあ』はいる。
暁生もそれを思い出していた。あの温もりに似ている。
「君みたいな子を前に抱いてた時があったよ」
『みゃあ』は緊張した。
(名前、呼ばないで。お願い、言わないで)
「のど、渇いた」
「持って来たの、お茶だけどこれでもいい?」
「うん」
ほんのちょっぴり飲んだ。本当は喉なんか乾いていない。
「咲絵さん、遅いなぁ」
こんな時、いつも咲絵さんはベランダを覗いてくれる。それまで中には入らない。暁生を見つけるといつも抱きしめてベッドに入れてくれる。
「ごめんね、暁生」
一度熱を出した。その時にはずっと看病してくれた。
「寒いだろ。ごめん、連れて来なきゃよかったね」
そう言われて『みゃあ』は暁生にしがみついた。
(連れてきてくれてありがとう)
言いたいけれど、言えない。だから心で呟くだけ。
咲絵さんがベランダの窓を開けたのはそれから1 時間半くらい経ってからだった。
「ごめん、暁生! 入って、すぐお風呂沸かすから」
咲絵さんの顔を見て驚いた。テーブルが引っくり返って椅子が倒れている。コーヒーがきれいなグリーンに茶色い染みを作っていた。
「咲絵さん……」
「ホントにごめんねぇ、殴られちゃってさ、倒れてたの。悪かったわ、遅くなっちゃって」
咲絵さんの頬をそっと手のひらで触る。
「痛そう……」
「いいの。いなかった私が悪いんだから」
唇が切れた咲絵さんが青い顔でへらっと笑う。暁生は咲絵さんをソファに座らせた。
「その子、なに?」
「あ! 拾った」
「ちょっと! もうこんな時間なのよ、家に帰さないと」
「分かんないんだって。家も名前も。そうだよね?」
「うん」
「分かんないって……」
「一緒にお風呂入ってくる。この子も冷えてるから」
「うわあ、ホントにごめん」
咲絵さんが手を合わせるから『みゃあ』はにこっと笑った。
「こら、逃げるな」
お風呂の中だ。
『みゃあ』は入って思い出した、お風呂なんて大嫌いだ。湯に浸かるなんてとんでもない。
洗われている間はなんとか我慢した。あの頃もこうやって時々暁生に泡だらけにされた。けど湯舟はいやだ! 散々もがいたがなにしろ力が違う。しっかり腕を掴まれた。
「冷えてるだろ! あったまんないと外に出さないぞ」
そう言われてやっと暁生の膝の上に大人しくなる。
(みゃあ……)
心の中で鳴いた。
先にお風呂から出されると咲絵さんが待っていた。しっかりとバスタオルで拭かれる。暁生のTシャツを被せられてドライヤーで頭を乾かされた。これは慣れている。よく暁生にこうやって乾かしてもらった。『みゃあ』はドライヤーは結構好きだ。
「出たぁ!」
暁生の声がして、咲絵さんはお風呂に向かった。覗いていると自分と同じように暁生が咲絵さんに新しいバスタオルで体を拭かれていた。
「手、上げて」
すっと暁生の手が上に上がる。すると咲絵さんが脇の下を拭く。
「足」
暁生が足を開く。その間も丁寧に拭いている。
「よし、終わり」
「ありがと」
暁生は裸のままリビングに来て、クローゼットの衣装ケースの奥から大きな黒いバッグを出した。そこから下着やら着替えを出して身につけて行く。
暁生が自分と『みゃあ』の脱いだものをすぐに洗濯機にかけて干すのをじっとみていた。
「どうしたの?」
「きれいにしてくれてる?」
「そうだよ。そうすればいつでも出て行けるしね」
足を組んでソファに座っている咲絵さんを見ると、唇の切れている方の反対側にタバコをくわえて少し笑った。
「私もいつ追ん出されるか分かんないけどね」
咲絵さんは困っていた。
「警察と関わるのはいやだわ」
「今日は取りあえず泊めてあげようよ」
少年を見て咲絵さんがため息をついた。
「しょうがないわね。いいわ」
不安そうな『みゃあ』をじっと見て仕方なさそうに笑う。
「可愛い。どうせベッドは大きいわ。3人で寝ましょ」
咲絵さんはきれいなものと可愛いものに弱いのだ。
簡単な食事を咲絵さんが用意してくれて、それを3人で分けた。
なんとなく嬉しくて、慣れない箸でぼろぼろ零し、 2人の顔を見ながら食べた。
夜中、ちょっと目が覚めた。暁生が自分を抱きしめて寝ている。すぅすぅと寝息が聞こえて『みゃあ』は安心してまた眠った。
暁生は夢を見ていた。ランドセルを背負っている。
「『みゃあ』、ただいま!」
靴を蹴るように脱いでばたばた家に入った。
――みゃあ
「寂しかった? お母さん! 『みゃあ』にミルクあげた?」
「お昼にあげたからそろそろお腹空いてるかもしれないわね」
「じゃ僕が飲ませる!」
小さな皿にミルクを注ぐ。目の前に皿を置くと小さな舌がちろちろとミルクを舐めていく。暁生は飽きもせずそれを眺めていた。
幸せな夢だ。涙がほろっと流れる。
『みゃあ』はふと目を覚ました。微笑んでいる暁生の頬が濡れていて、そこから ぽと と涙が『みゃあ』のおでこに落ちた。『みゃあ』は体を伸ばして暁生の頬をそっと舐めた。
小さい声で鳴いてみる。
「みゃあ」
でもそれは、人間の声だった。
朝、怒鳴り声と恐ろしい物音で目が覚めた。暁生が瞬間的にぎゅっと『みゃあ』を抱きしめる。
恐ろしい顔をした男が部屋の真ん中に立っていた。多分蹴ったのだろう、椅子が壁の前に倒れている。
「咲絵っ! やっぱり男を連れ込んでいたな! よりによってそのベッドで一緒に……」
「どうして」
「おかしいと思ったんだ、昨日のお前が。それにジュースなんか誰が飲むんだ! お前はそんなもの飲まないだろう!」
咲絵さんは肩を落とした。
「思ったより長続きしたもの。いいわ、出てく。ごめんね、お世話になりました」
男が咲絵さんの頬を思い切り叩いた。倒れた咲絵さんを男が蹴ろうとする足下に暁生が滑り込んだ。咲絵さんの体に覆いかぶさる。
「ごめんなさい、僕が道端で食べるの困ってたから助けてくれたんです。咲絵さんは悪く」
暁生が蹴られる。何度も何度も。今度はその体に被さった咲絵さんが蹴られた。
悲しくなって『みゃあ』は叫んだ。
「やめて! やめて、お願い、やめて!」
人間になって初めてこんなに大きな声を出した。手を広げて暁生と咲絵さんの前に座り込んだ。
「お前は、なんだ」
男は息を継ぎながら『みゃあ』を見下ろしている。
「拾ってもらったの。たすけてもらったの」
「……お前も拾われたのか。咲絵! お前は『男』ならなんでも拾うのか!」
「ばか、な、こと、言わ、ないで」
「バカだと!?」
「出て、くから。少し、だけ、時間、ちょうだい…… したく、するから」
男は『みゃあ』の体をどけてもう一度暁生を蹴った。
「もう、いいでしょ! 足りない、なら、私を、蹴ればいいじゃ、ない!」
「すぐに出て行け。午後にはこの中のものを全部処分させる」
大きな足音を立てながら男は出て行った。
『みゃあ』は咲絵さんが暁生をベッドに寝せるのを手伝った。たいした力にはならなかったけれど。
「咲絵さんも、休んで。お願い」
『みゃあ』は一生懸命に言ったけれど、大丈夫、と言って咲絵さんは支度を始めた。
大きなスーツケース。本当に必要な物だけを入れて行く。お洒落な服も贅沢なものも入れない。
「私ね、元々貧乏な家で育ったの。だから別に平気なのよ。生きていくのに必要なものくらい分かってるから」
さっぱりと言う咲絵さん。やっぱり動くのが辛いのだろう、時々座って休みながら動く。
「う、ぅ……」
「暁生? 待って、今お水を上げる」
咲絵さんが痛み止めとお水を暁生に飲ませる。
「ごめんね、俺のせいで」
「違うわ、いつこうなってもおかしくなかった。私もそろそろ終わりにしたかったしね」
「これからどうするの?」
「とりあえず出ましょ。考えるのはあとで。外はまだ明るいし」
いつもの男前の笑顔だ。
「起きれそう?」
「うん、なんとか」
そっと体を起こす。蹴られていた腹部が痛む。
「咲絵さんは? あいつに蹴られたでしょ?」
「少しね。その後はその子が庇ってくれたから私は大丈夫よ」
暁生は『みゃあ』を見た。
「ごめんね、きみまで巻き添えにしちゃった」
『みゃあ』は首を振った。
「ぼくは平気。2人ともかわいそうだった」
少し涙が出る。
「おいで」
暁生がベランダにいた時のように抱きしめてくれた。
暁生は『みゃあ』を見て、咲絵さんを見た。
「俺たちってみんな一人ぼっちだね」
咲絵さんが笑う。
「そうね。一人ぼっちが 3人だわ」
部屋を後にした。暁生は自分のバッグを担いでいる。咲絵さんはさっさとエレベーターに乗った。
「いいの?」
マンションを振り返らない咲絵さんに暁生が聞く。
「いいの。あそこは家じゃなかったもの」
電車で揺れながら咲絵さんが携帯であれこれ見ている。『みゃあ』は外を眺めて、暁生を眺めて。電車でのお出かけがちょっと嬉しい。
「次、降りるわよ」
2時間近く経っていた。電車が止まって、ドアがぶしゅーっと開く。3人はホームのベンチに座った。
「暁生、この近くにホテルがあるの。空いてるって言うからそこに行くわ」
そうだった。この後、どうするかどうかなど考えていなかった。
「一緒にいてもいい?」
「どうせ行くとこないんでしょ?」
もちろんあるわけが無いから頷いた。
「そっちの少年。あんたもおいで。後で考えてあげるから」
3人でホテル目指して歩いた。空がきれいだ。
「広いね!」
いつも咲絵さんと同じベッドだった。でもここにはベッドが 3つある。
「休みなさい。かなり蹴られてたけど我慢してたんでしょ? 横になりなさい」
暁生は咲絵さんの言う通りに横になった。
咲絵さんはルームサービスを頼んで、三人で軽い食事をした。
「朝食も食べてなかったもんね。少年、あんたも寝ていいわよ、私も寝るから」
3つのベッド。暁生はもう眠っている。それを確認して咲絵さんもベッドへ行った。
「眠れそうにないの?」
そう言ってテレビのリモコンを投げてよこす。『みゃあ』は受け取りそこなって床から拾った。
「見てなさい。大人しくね」
そのまま眠ってしまったから『みゃあ』はどうしていいか分からないまま、リモコンをテーブルに置いた。
ベッドに横になってみる。ふかっとするし体を伸ばすと気持ちいい。けれど一人ぼっちだ。
暁生のそばに行った。今の暁生をじっくりみるのは初めてだ。たくさん変わってしまったけれど、眠る顔の中にあの頃の暁生がいる。
「みゃあ」
人間の声で言ってみた。なんだかそれが悲しい。
暁生のそばに潜り込む。眠っている暁生に引き寄せられた。
また夢の中だ。お母さんが引きつったような顔をしていた。その向こう側でお父さんがぶら下がっている。
――ゆらゆら
風も無いのに揺れていて、それに何も感じることが出来なくて。
――ゆらゆら
それがとても悲しくて。
お母さんは赤く塗れた包丁を持っていた。今考えればそれは『みゃあ』の血だったのだろう。
お母さんはそれを使わなかった。暁生は引きつった顔のお母さんを下から見ていた。
――のど、いたいよ、おかあさん
そう言いたかったけれど言うことが出来ない。
――おかあさん、くるしいよ
お母さんの手を触ったけれど、もう力が入らない。
真っ暗になっていく中で暁生が思ったのは(『みゃあ』、みるく、ごめん)ということだった。
「『みゃあ』…… 『みゃあ』、ごめん、『みゃあ』」
抱きしめられて『みゃあ』は聞いた。悲しかったけれど嬉しい。
(あきお あきお きえちゃうけどもうなかないで)
すぅっと体が軽くなる。もう一度呼びかけた。
(あきお なかないで)
『みゃあ』 と聞いた。 「どうして僕を行かせたの?」
――お前が望んだろう?
『みゃあ……』 「でも……」
――なんだ?
『みゃあ』 「かなしいよ」
――どうして?
『みゃあ』 「僕は暁生になにしたんだろう」
――なにもしていない
『みゃあ』 「それがかなしい」
『みゃあ』 「もう涙をなめてあげられない」
『みゃあ』 「一人ぼっちの暁生がかなしい」
――……全部なくしてもかまわないか?
『みゃあ?』 「ぜんぶ?」
――思い出も。暁生への気持ちも。何もかも。
暁生のそばにいたいか?
…………『みゃあ』 「いたい」
いろんなものが自分の中から消えていく……暁生の笑顔。暁生の涙。暁生の手。たくさんの思いが消えていく。
『みゃあ』
最後に一声、鳴いた。
「少年、起きなさい」
女の人の声で目が覚めた。
(ここ、どこ?)
「ずい分寝てたわね。もう夕方よ」
(夕方?)
わけの分からない状況にとまどう。
「どうしたの、また全部忘れちゃった? それとも帰るとこ、思い出した?」
(忘れちゃった? 思い出した?)
「分かんない。全部、分かんない」
「しょうがないわね。いい? あんた、暁生が拾ってきたの。で、私のところに連れて来られた。食べさせてあげて、寝かせてあげたけど、いざこざがあった。それでここに来たの。分かった?」
ざっくりした説明だったが、逆に分かりやすかった。
なんとなくその出来事が初めてじゃないような気がする。拾われて、食べさせてもらって、眠らせてもらった。
「んん……」
「あら、目が覚めた? 暁生、この子また忘れちゃったみたいよ」
「……忘れちゃったって、今日のことも?」
「そうみたい。でも説明は終わってるから。ほら、あんたを拾ってきた暁生」
「あきお」
「うん、そうだよ。そうか、忘れちゃったのか」
抱きしめられた。
「何か苦しいことがあるんだね」
咲絵さんが 1階のレストランに連れて行ってくれた。
「なんでもいいわ。食べなさい」
咲絵さんはスープとサラダとスパゲティを頼んだ。暁生と『みゃあ』も同じものにした。
「さて、少年。ややこしいことは今日考えたくないの。でも名前が無いのは困るわ。なんにしようか」
言われても分からない。困った顔になる。
「俺が名前つけていい?」
「いいわよ。なに?」
「そら。この子と会った時、空が青くてきれいだったから」
「空…… いいわね、単純で。じゃ、あんたは『空』。いい?」
「そら。うん、いい」
空は咲絵さんと暁生が食べるのを真似して食べた。熱いスープは苦手でゆっくり飲む。サラダはフォークが難しかったけれどちゃんと食べられた。
スパゲティはまるでだめだ。フォークの間を滑って落ちていく。口に入らず一生懸命になっているうちに、先に食べ終わった咲絵さんが笑い出した。
「あんた、下手ね! 初めてフォーク使った子みたい。しょうがないなぁ、食べさせてあげる」
咲絵さんはくるくるっときれいにフォークに巻きつけて空に食べさせてくれた。
「美味しい!」
「でしょ?」
咲絵さんが満足そうに空にスパゲティを食べさせているのを、暁生も嬉しそうに見ていた。
「外に行くわよ」
咲絵さんについていく。暁生が手を握ってくれた。それがなんだか嬉しい。
「こういうとこ初めて見るの? デパートって言うのよ」
きょろきょろと大きな建物を見ていると呆れた声で言われた。『エレベーター』という狭い部屋に入るとすーっと動く感じがして、開いたらさっきのところと違う場所になっていた。
「おいで」
今度は咲絵さんが手を握ってくれた。この手も温かい。
連れて行かれた場所にはたくさんの服があった。
「あんた、何色がいい?」
答えられずにいると暁生が言った。
「青だよ、咲絵さん! 絶対青がいい!」
「じゃそれでいいわ。暁生、あんた買っといで」
咲絵さんはそばにある椅子に座った。空も隣に座る。少し経つといくつかの袋をぶら下げて暁生が戻ってきた。
「下着は?」
「買った」
「靴下は?」
「買った。お金使って大丈夫なの?」
「全部あいつがくれたお金よ。ほとんど使わなかったから」
ホテルに戻って買った物を袋から出す。咲絵さんの手が器用に動いて服から余計なものをどんどん外していく。ゴミを全部捨てて手提げの袋に入れると、一つに収まった。
「じゃ、これからのこと少しだけ話しましょ」
2人はテーブルを挟んで咲絵さんの前のソファに座った。
「先に言うわ。お金は気にしなくていい。ホントにあるのよ。欲しいって言えば何でも買ってくれたし。分かったわね?」
空には分からないけれど、暁生は明るい顔になった。
「だからって、こんなホテルにずっといるわけにはいかないわ。あっという間にお金ってなくなっちゃうからね。だから最初に家を探す」
相変わらずのざっくり感で、だから暁生は暗くならずに済む。咲絵さんの性格に救われている。暁生 1人だったらまたあの家無しに戻っていただろう。
「それで、聞きたい。暁生、あんたこれから先どうする気?」
「俺? ……咲絵さんと一緒じゃだめ?」
「構わないわよ。セックスはしてもいいけど愛は期待しないで頂戴ね。あんた、うんと年下だし」
「分かった」
「あと、私といるんなら仕事なさい。なんでもいいわ、スーパーとかコンビニとかそんなんで。でももう『ぷー』はだめ。それなら出て行くこと」
「はい。言うこときく」
「で、空。あんたのこと、考えなくっちゃならないんだけど」
さっきからの話の様子で、空は咲絵さんの言う通りにしていればなんでも大丈夫だという気がしている。
「で、それはちょっと面倒だからまだ考えないでおく。先にマンションでも見つけてからってことにしよう。あれこれ調べんのも今は苦痛わ。それでいい?」
「ぼくも一緒にいていいの?」
「放っておくわけにもいかないしね。警察に連れてってもいいんだけど、そしたら私も面倒なことに巻き込まれちゃうし。だから後回し」
「はい」
「じゃ、万事解決ね。テレビでも見ようか」
呆気なく問題が解決したから空はほっとした。さっき 2人と手を繋いだからこのままずっと一緒にいたい。どっちも優しい手だった。
寝るときになって暁生がそばに呼んだ。
「 1人で寝られる?」
少し考えて首を横に振る。
「そうだよね。いいよ、僕と一緒に寝ようね」
ぱぁっと空は元気な笑顔を浮かべた。
布団を開けてくれたからそこに潜り込んだ。すんすんと匂いを嗅ぐ。
「空って猫みたいだ」
ぎゅっと暁生が抱きしめてくれた。
夜中に不思議なことが起きた。夢の中だ。そこには咲絵さん、暁生、空がいた。
声が響く。
――お前たちは一人ぼっちだ
「言われなくたってそんなこと分かってるわよ」
こんなところでも咲絵さんは臆さない。いつも咲絵さんは『咲絵さん』なのだ。
――空 名前をもらったな 少しだけ思い出していい
そこにいるのは 暁生だ
空は暁生を見た。
「みゃあ! みゃあ、みゃあ!」
暁生は空を見下ろす。
「『みゃあ』? 『みゃあ』なのか?」
抱き上げた。空は猫の姿になっていた。暁生は泣いて『みゃあ』を抱きしめた。この温もりを覚えている。
「『みゃあ』だ…… 俺の『みゃあ』だ……」
「暁生、あんた自分のものがあったのね?」
「うん…… この子、俺の『みゃあ』なんだ」
「良かったわね。あんたは一人ぼっちじゃないわ」
――咲絵 一人ぼっちはいやか?
「……当たり前じゃない。そんなの分かってるでしょ」
――そうか 家族がほしいか 自分だけの家族
「今さらできないわよ、そんなの」
――できるとしたら?
「欲しい…… 欲しい、欲しいに決まってるわ!」
両手で抱きしめた自分が一人ぼっちで寂しかった。暁生のようになにかの温もりが欲しかった。
――お前たちは もう一人ぼっちじゃない
「姉さん! 遅れるよ!」
「分かってるわよ! あんた、今日のバイトは?」
「俺は10時から!」
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
「ほら、空も学校遅刻するぞ」
「うん、叔父ちゃん!」
「だから叔父ちゃんって言うな!」
「だってお母さんの弟だから叔父ちゃんでしょ?」
「もう宿題手伝ってやらないぞ!」
「ごめんなさい! お兄ちゃん、行ってきまーす!」
「よし! 行って来い!」
暁生は窓を開けて布団を干した。まだ 8時。1時間半は干せるはずだ。
支度を始める。今日はバイト先の
「今日はいい一日になりそうな予感!」
青空を見上げる。空気を思いっきり吸う。気持ちが温かい。
「うん! いい日だ! 神さま、『今日』をありがとう!」
――『神』がどういうものか私は知らない
だがお前たちが一人ぼっちじゃなくなるのなら『神』になってもいい
『それ』は、また別の一人ぼっちを探し始めた。
温もり 宗田 花 @ka-za-ne
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます