私、さっき本屋でうんこもらしました

梅生

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 いずれにせよ、私を嫌っているのは間違いない。なにしろオフィスの通路ですれ違うたび、露骨にツンと目を伏せて、歩みが速く、荒くなるのだから。そのとき生じる風を私になすりつける野性的な仕草からも、十分敵意を感じた。お互いもう三十を超えているというのに、あれではまるで中学生だ。アホくさいとわかっていながら、ヤツのヒールが床を踏みならすたびごとに、まんまといやな動悸に襲われる。

 気味が悪いのは、私を毛嫌いしているはずのヤツが、私の好きなものをことごとく模倣してくることにあった。たとえば服装なんかはわかりやすい。ヤツは元々、私とはまったく違うテイストを好んでいて、淡いピンクとブラウンの縞が交差した大ぶりのブラウスなんかは特に気に入っているようだった。元々、それ自体になんの感想もない。というかそもそも、ヤツに対して特段なにも思うところがなかった。半年ほど前に中途入社をはたしたあの日、直属の上司にあちこちに引き回される中で、ヤツの席にも寄って挨拶をしたのだが、あのときはまさかここまで厄介な奴だとは夢にも思わなかった。

 淡いマカロンカラーがアイデンティティだったはずのヤツは、ある日突然、無地のモノトーンを身にまとって出社してくるようになった。その日の衝撃はわりと鮮明に残っている。なにしろ、まるでそこに鏡があるのかと思うくらい、私と瓜二つだったのだ。その日の私は、グレーのタートルネックに黒のパンツと革のブーツをあわせていたのだが、自席に姿勢良く座り、かといって何か業務に取りかかっているでもなく、しきりに顔の周りの髪をいじっているヤツもまた、上下同じ配色だった。

 趣味についてもそうだった。高校で不登校になった時期があり、そのときたまたま手に取ったのをきっかけに夢中になった青年漫画が今でも好きなのだが、半分ウケねらいでデスクに置いたところ、それまで話したことのなかった同僚がぽつぽつ声をかけてくれるようになった。ヤツが急に漫画好きを公言し始め、デスクに漫画の単行本やグッズを置き始めたのは、それから間もなくのことだった。

 服にしろ、趣味にしろ、「それいいですね」とか、それすら抵抗があるのなら、せめて「実は私も好きなんですよね」といった風でもいいから、あちらから何かしらアクションがあるならば、なんの違和感もなかった。だがヤツはまず私のことを毛嫌いしているのであるから、とかく徹底的に私の存在を視界から排除していた。そうしておきながら、常に私を監視し、私の方へ耳をそばだて、私が好きだとわかるなり、これ見よがしに、だけど周囲には決して悟られないようなやり方で、ざりざりの鉛筆の先でえぐるようにしてなぞってくるのだった。

 昔から何事も白黒つけなければ気が済まない私にとって、ヤツの一連の行動は不可解で、それ故にただひたすら不快だった。好きならとことん近寄るし、嫌いならとことん遠ざけるっていうのが筋なんじゃないのか。まったく何がしたいのか皆目見当がつかない。私を嫌っておきながら、その周りをうろうろするとは何事か。こんな風に腹を立てつつも、時折、前職で世話になった人からの餞の言葉が頭をよぎる。

「一生懸命やるのはいいし、そんな君の姿勢を個人的に好ましく思っていたけど、世の中は白か黒かだけではないってことを知った方がいいよ。疲れちゃうからね」

 退職の一週間前、挨拶の電話を入れたときのことだ。あたかもとびきり上等な物を寄越してくるかのようなもったいぶった口調で言われた。優しい声だった。だけどそこには小馬鹿にしたようなトーンも少なからず混じっていた。だからそのときの私の胸中は、反発心が九割方をしめていた。そんなのは腑抜けたおじさんの言い訳だ、と思ったし、実際、そんな腑抜けたおじさん同士のニヤニヤした傷のなめ合いに巻き込まれるのが嫌で、苦労して入ったその会社を辞めたのだった。

 だけど今思えば、私自身、自分の幼稚な極端さにうんざりしていたような気もするのだ。他人の意味不明な言動にいちいちダメージを受け、その真意を突き止めるまで徹底的に怒りまくるのは、あまりにも馬鹿げている。

 なので、ヤツの一件はいい勉強だと思って、そのままにしておくことにした。せいぜい好きなだけ私を憎み、私の猿まねをしてションベンをひっかけた気でいればいい。もう訳の分からない連中と同じ土俵で殴り合うのは卒業するときなのだ。

 だが、その結論に達するタイミングが悪かった。その頃私は、数日にわたって猛烈な眠気に襲われていた。眼球の裏側に「眠い」のカスがこびりつき、そこから熱を発しているような不快感が続いた。

 そしてそれに伴って、かなり神経質になっていた。まるでヒステリックな柴犬のように、自分の気配に触れてくるあらゆる異物が許せなかった。オフィスの隅でせかせか働いている清掃業者の堤さんにすら、いつもより素っ気なく挨拶してしまう始末だった。

 といっても、いつもの「おつかれさまです」の後に続く、ちょっとした世間話を端折っただけだった。だが堤さんは、その日も私との意味のないやりとりを待ち焦がれていた。「きょうは寒いですね」だとか、「昨日は電車混んでましたね」だとか、そんな、すでに何百回も使い古してくたくたになったような他愛もない一言を、目を輝かせて期待していたのだ。それをわかっていながら、私は知らん顔をしてゆるやかに、だが強引にその場をお開きにしてしまった。優しい堤さんは、私を引き留めなかった。だけど私を気遣ってさっと目をそらしたときの横顔が寂しそうだった。調子が戻ったら、どこかで埋め合わせをしなければならない。ああいう人こそ、すこしでも良い思いをするのが筋ってものだ。

 そういった、会社を休むほどではないけど決して本調子じゃないときに限って、あらゆる気がかりが次から次へと立ち上ってきて、まさにそういった流れのなかで、ヤツについても「そっとしておく」と決めてしまったのだ。そういうときの判断は往々にして間違っているか、正しいとしてもちょっとしたことで崩れ落ちてしまう。

 そしてそのちょっとしたこと、というのが、例に洩れずふりかかった。堤さんと簡単な挨拶を交わした直後、フロア共用の休憩コーナーで、ヤツとばったり鉢合わせてしまったのだった。しかも二人きりだった。ヤツは相変わらず、私と同じような服装、同じような髪型にしておきながら、私なんてまったく視界に入ってないみたいな顔をしている。

「……おつかれさまです」

 私は少し迷ってから、結局自分の信条に則ってフラットなトーンで挨拶をした。出会い頭に挨拶をする、というのは、人として当たり前のことだ。だから私はこれまでの人生においても、人見知りや思春期の気難しさも押し殺して、ずっとこんな風に、興味もない人間に挨拶をしてきたのだ。

 するとヤツはそこで初めて私に気づいたかのような白々しい素振りでしなをつくり、「あっ、おつかれさまです」と返してきた。「で」に何やらむにょむにょした、甘いものを口に含んだまましゃべっているようなトーンが乗り、この甘ったるさが次の儚げな「す」と見事に溶け合って、実に感じの良い挨拶だった。その妙な愛想の良さそのものが、「あんたのことなんてこっちは眼中にありませんことよ」といったマウントに他ならなかった。私が挨拶しなければ、ヤツは例のごとくツンとすました顔で、颯爽とした足取りでここから立ち去ったに違いない。

 やにわに、首の付け根の骨の奥が、ぐつぐつ、と煮えるように軋んだ。冷静な自分が「やめておきなよ」と苦笑いしているのがわかって、より一層、やめるわけにはいかなかった。

「私、さっき本屋でうんこもらしました」

 沈黙。ちょうど水が冷えて氷になるように、その場を満たす空気という空気が一瞬にして固まった。その反動で、コーヒーメーカーから紙コップを取り出したばかりのヤツは小さくけいれんした。それからほとんど無意識に、といった感じで、だらしなく曖昧な笑顔を浮かべて私を見た。ヤツの動物的な防衛本能がそうさせているようだった。

「や、本屋行くとうんこしたくなるじゃないですか。で、さっき本屋行ったときもうんこしたくなったんですよね。でも私、外のトイレでうんこするの好きじゃないんです。だからうんこしたいの無視して立ち読みしてたらちょっと先っちょが出ちゃって、まあそれだけならまだセーフなんですけど、それ忘れてオフィスの自席で座っちゃったんで、多分いまパンツにうんこついてると思います」

 ヤツは何も言わなかった。何も言わないまま、相変わらず気弱な笑みを浮かべている。私はといえば、それなりに大胆なことをしているというのに、ヤツの目をまっすぐ見れなかった。元来小心者なのだ。普段明るい感じで振る舞っているのも、そうしろと周りから言われてきたからにほかならない。私だって本当は、親の脚にまとわりついて子どもらしくモジモジしたかったし、冷めた目で教師のお説教をかわしてみたかった。でもそうすることが許されなかったから、ずっと「明るい素直な子」でいるうちに、それは習慣になり、今更他人に受け入れてもらえる塩梅にひねくれるのも面倒で、惰性で社交的な感じにおさまっているのだった。でもヤツは、そんな事情を知りもせず、ただ表面的なところだけ切り取ってつまみあげ、トラウマだかなんだか知らないが、その貧相な過去のデータや想像力と照合して、私の人間性や幸福の定義を決めつけて敵視している。もうこれ以上こんなことを許すわけにはいかない。いまこそ正義の鉄槌を食らわせるときなのだ。わたしは大胆で、小心者で、正義感の強い、外のトイレで大便するのを好まない人間だった。

「それに、一年ほど前に母が死にました。といっても、世間がイメージするような母親じゃなかったんですがね。私が甘えて袖を引っ張るとまるで虫か何かのように振り払うし、父親のほかに、すくなくとも彼氏が二人はいました。ああちなみに、子どもの頃その一人と直接会ったことだってありますよ。母は私が進んだ高校の名前すら覚えようともしないで、気に入らないことがあるとすぐ私をぶちました」

 後半は感極まって涙声になってしまった。それがいけなかった。ヤツはやにわに我に返り、精一杯の白けた空気と表情をかき集めて、その場から離れようとした。勿論、そんなことは許さない。だがその意気込みとは裏腹に「待ってください」と言葉にする勇気はなかったので、その肩を掴んだ。私もまた、部分的にヤツを無視したままでいたかったのだ。他の誰でもないヤツに向かって話しかけているというのに、あたかもでかい独り言を無理矢理聞かせているような不気味な感じを保って、怯えさせたかった。

 だが肩をむんずと掴んでまで引き留めておきながら、続く言葉がでてこなかった。ヤツからの敵意を感じてから今に至るまでの数か月間、帰りの電車や、風呂の中で丹念にこねて固めてきた「正論」がほろほろと崩れていくのを感じた。

「とにかく、やめてくれませんか」

 何をだよ。やっとのことで絞り出した自分の言葉に、すかさずもう一人の自分が頭の中で突っ込みをいれる。

「何をですか?」

 案の定、ヤツもまた自信満々に言い放った。さっきまでのとぼけた感じを保ちつつ、それをこちらへぐいっと押し出してくることで、私への敵意を自供していた。その証拠に、ヤツの鼻の穴は隠しきれない興奮のせいで、横に大きく広がっていた。

 きっともっと堂々とした人ならば、ここで吹き出してヤツをあざ笑い、あっという間にこの場を有利な方向へ運ぶのだろう。だが私はそうではなかった。ヤツのみっともなくふくらんだ鼻の穴にすら煽られていた。なんてむかつく顔をしやがるんだろう。さらに呆れたことには、ヤツの「何をですか?」という言葉に対して、結構な純度の素直さで「たしかに、私は何をこの人にやめてほしいんだろう」と自問自答していた。

 ――私を嫌ってるくせに、真似をするのはもうやめてほしい。真っ先に思い浮かんだのはこれだった。だけどそのまま言うのはあまりにも幼稚だし、いかにも自意識過剰な感じがしていやだった。たった今、「何をですか?」で力を取り戻しつつあるヤツもきっとますます元気になって、「気のせいじゃないですか」と半笑いで反撃してくるにちがいないのだ。

 ああくそ、ここに神様がいればなあと思う。私がこれまでずっと感じてきた気味の悪さ、不快感、そして奴自身からもにじむかすかな後ろめたさの根っこを鮮やかに捕まえて、そこの源氏パイとばかうけが並んだテーブルへ乗っけて見せてくれるに違いない。

「えっ、その、なんていうか……うーん、絡んでくるの、やめてほしいんです。私が気に入らないなら。なんかそういう矛盾した行動、無理なんです。生理的に」

 出だしをもごもごとしくじってしまったため、そのあとに続いた言葉選びも失敗に終わった。結局、元々恐れていた自意識過剰甚だしい感じになってしまった。そもそもヤツは、一切私には絡んでいない。そこがミソなのだ。むしろ徹底的に無視しておきながら、その服装や態度すべてでもって、私を挑発していた。私ならもっとうまくやれますけど。そう言いたげな態度で、私の領域の端っこで、私が音を上げるまで辛抱強くうろついていたのだ。

 ヤツもまた勝利を確信したのか、今度はさっきのような本能的なものではなく、計算し尽くされた芸術的な困り顔で笑った。

「えっ、ちょっと……え? 何言ってるかわかんなくて」

 ああもうダメだ。こうなってしまっては、覆しようがない。だからやめておけばよかったのに。ヤツの肩を掴んだ指先からすっと血の気が引くのを感じた。そのくせ、その表面はじっとりと変な汗をかいている。母はよく、私の手が「べたべたしている」と言って、触られるのを嫌っていた。

 ヤツの肩にいつまでも触っているのはいやだったが、このタイミングで手を放したりしたらなおさら惨めになりそうで、後に引けなかった。もう私の負けでいいから、せめて自然に手を放すきっかけがほしいと祈った。

 ――がこがこ。

 そのとき、私たち二人を覆っていた不穏な膜の外側から、聞き覚えのある、地に足の着いた音が聞こえた。半ば無意識に、半ばその「言い訳」に感謝しながら、音がした方へ振り向きつつ、ヤツの肩から手を放す。汚れたちりとりをプラスチックの箒の柄が叩く音だった。堤さんだ。

 堤さんは、私たちの、いや、正確には私の視線に気づくと、聡い子犬のように、どこか申し訳なさげに、だけどほんの少しの期待をにじませたまなざしを返してきた。予定では、すくなくともあと一週間はかけてコンディションを整えたのち、先ほどのやりとりの埋め合わせをするはずだった。だがそのとき無性に、今この瞬間にやるべきだと感じた。血の巡りが悪い腹の底からなけなしの慈しみを振り絞り、笑いかける。

「……あはは、おつかれさまです」

 さっきも挨拶したばかりなのに、もう会っちゃいましたね。そんなニュアンスをこめた「おつかれさまです」だった。

 堤さんは、励まされたように大きく頷きながら「あ、はい、おつかれさまです」と言った。私のニュアンスと同じトーンの、おどけた口調だった。私の肉体は相変わらず本調子ではないので、そうした堤さんの放つ人の良さに応えて微笑むのすら苦しかった。だが直前まで高ぶり、しおれかけていた魂の方は、大いに慰められていた。

 そしてずる賢いもう一人の私は当然、すっかり蚊帳の外になってしまったヤツのことを意識していた。

 ヤツはこれまで堤さんとなんの交流もなかったのか、無反応だった。だが無反応ながら、自分が今どのように振る舞えば有利なのか、決めかねているようだった。ヤツがもたついている間、私の反応に気を良くした堤さんが近寄ってきた。

「前から言おうかと思ってたんですけど、本当にいつも素敵ですよねえ」

 それは、堤さんなりのリップサービスのように思われた。優しい堤さんのことだから、私が心身のバランスを崩していつもより素っ気ない挨拶をしてしまったこと、それをあとからくよくよ気に病んでとってつけたように愛想をふりまいたこと、これら全部をわかったうえで、そんな浅はかな私の精一杯を労ってくれただけなのだ。だけどそのときの堤さんの言葉には、私にそうだと信じさせるに足る、しみじみとした温もりが宿っていた。

「え、あ、いやあ……」

 私はといえば、そんな堤さんからのお世辞を受け止めるのはもちろん、受け流すことすらできずに、ただニヤニヤすることしかできなかった。いや、もしかしたらそれすらままならなかったのかもしれない。その証拠に、堤さんはまた悲しげな顔で身じろぎ、そのはずみでふと、私の近くにいたヤツの方を見た。まるで初めてその存在に気づいたかのような表情だった。私もつられてヤツの方を見る。ヤツはそれまでの間、親戚の集まりで無愛想を貫く思春期の子どものように私たちを無視していたのだが、自席へ持ち帰る飲み物やおやつの支度が済んで立ち去ろうとしたタイミングで、運悪く堤さんとまともに目が合ってしまったのだった。

 先に目をそらしたのは、堤さんだった。まるで、壁についた小さな汚れを見つけてからすぐに興味を失うときのような、冷淡な素振りだった。いかにも人の良さそうな堤さんの、そのあまりにも素っ気ない視線の外し方に、ヤツの隣にいた私までどきりとしてしまった。ヤツもさすがに面食らったようで、この場から立ち去ろうとしていたはずのその足を止めたまま、動かなくなってしまった。

 だけど堤さんだけはどこ吹く風で、私に向かってまた微笑んだ。

「ほら、この間言ってたキラキラ……うらやましくなってマネしちゃったんですよ私」

 そう言って自分の頬骨を指さす。たしかに、蛍光灯の明かりを受けて潤むように輝くそれは、私が最近気に入って使っていたハイライトと同じもののようだった。だけど彼女の少し乾いた、金箔のように薄い皮膚と溶け合うそれらのほうが、よっぽど美しい光の粒に見えて、私は思わず見とれてしまった。

 堤さんは、そんな私の沈黙を違うようにとってしまったらしい。「ごめんね」と怯えたように言うなり、小さくなってしまった。

「え、何がですか?」

「真似なんかしちゃって。私みたいなさ、いい歳した……」

「いやいやいや、何言ってるんですか。歳とか関係ないですよ。むしろ堤さんの方が何倍も似合ってますし」

 言いながら、私はひたひたとこみ上げる堤さんへの尊敬の念を、舌の付け根で味わっていた。私もこんな風に堂々と、爽やかに、「素敵だったので、あなたの真似をしました」なんて言えるようになりたいと思った。それに、「真似」であるはずのそれは、堤さんにしか出し得ない唯一の光沢を放ち、その場の何もかもを照らしていた。その美しさにほんの少しでも貢献できたとするならば、これ以上の喜びはなかった。ひとつの物質としての私が、宇宙から予め定められた役割を全うしたような、そんな高揚感にすら包まれた。

 そしてそこでふと、ヤツのことを思い出した。私は堤さんのおかげでほんの一瞬だけ、ヤツの存在をすっかり忘れていたのだった。ヤツもまた、心ならずも一部始終を目の当たりにしていたようだった。やにわに、その気配が青ざめていくのがわかる。まともな神経をしている人間ならば、当然決まりの悪い場面に違いなかった。ヤツも例外ではない。厄介な人間には違いないが、何故厄介なのかといえば、ある程度はまともな神経を備え持っているからにほかならない。ある程度まともと見えるからこそ、そんな相手が不可解な行動をとった際、たまらなく不愉快な気持ちにさせられるのだ。

 奇妙なことに、みるみるうちに気まずそうに小さくなっていくヤツを、私は不憫に思った。もともと「可哀想な奴だ」とは思っていた。だがそれは、ヤツから向けられる理不尽な悪意に対する怒りをなだめるための、皮肉めいた応急処置に過ぎなかった。よくある決まり文句だ。可哀想な奴だ、可哀想な奴なんだよ……。そんな風に突き放して、軽蔑することで、なんとか気持ちを切り替えてここまでやってきたのだった。

 だけど私はそのとき初めて、はっきりとヤツに同情した。コイツは本当に、可哀想な奴なのだ。赤の他人だろうがなんだろうが、一人でも多くの人にちやほやしてもらえないと不安になり、三十年以上も生きておきながら、未だにそういった不安をコントロールできず、他人に当たり散らしてしまう。そんな屈折した赤ん坊みたいなヤツに、この仕打ちはきっと相当キツイんじゃないだろうか。

 だがヤツのことなんてちっとも関心のない堤さんは、なおも目を輝かせて私に微笑みかける。堤さんの温もりが私に注がれるたびごとに、ヤツに対する残酷な無関心さが鋭利になっていった。なんだか私までしんどくなってしまった。もはやさっきとは違う意味で、ヤツの方を見る勇気がなかった。泣いていたらどうしようとすら思った。

 そのときだった。どろり、と覚えのある感覚が股ぐらに広がった。今、来るのか。思えば十年あまり、この瞬間には何度もぎょっとさせられたし、腹の立つこともあったが、今回ばかりはありがたかった。この居心地悪い空間から一抜けする言い訳を、思いがけず得たのだ。

「あっ、堤さんすみません、ちょっと、きちゃったみたいで……」

 なんだか不思議な心地だった。たまたま居合わせた人間が親しい友人や家族の場合は、まるで子宮と声帯が直結してるかのごとく、生理の始まりをアナウンスすることが多かった。だが堤さんは、別に親しい友人でも、ましてや家族でもない。それこそ赤の他人と呼ぶに相応しいような人だった。

 でも、私はもう二度と、堤さんを傷つけたくなかった。と同時に、これ以上堤さんに幻滅したくない気持ちもあった。だから私は、おそらく子宮があるとおぼしきあたりをそれっぽくおさえながら、堤さんの私に対する好意のせせらぎを遮ったのだった。本当は、そんな生理用ナプキンのCMみたいに上品な場所ではなく、股ぐらをむんずと掴んで、子宮の内側からずり落ちたばかりの血の塊が横から漏れないよう、しっかり捕まえておきたかった。不幸中の幸いと言うべきか、念のためにナプキンを敷いておいて本当によかった。おかげで急な生理や脱糞も怖くない。

「わっ、大変。大丈夫ですか?」

 堤さんは心配そうに眉を下げて、優しい素振りで私に向かって両手を差し出した。きっと「お母さん」ってこんな感じ、まるで子宮同士が響き合っているかのような温かさで心配してくれるんだろうと思った。それがうれしくもあり、一方でなんとなく、自分の母がそうではなかったことに安堵する自分もいた。

「いや全然。大丈夫です。すみません、ちゃちゃっとトイレ行ってきますわ」

 そう言うなり、私は堤さんもヤツも一切見ないようにして、そそくさとその場を後にした。あたかも用が済んだらまた戻ってくるような、思わせぶりな言い方をしてしまったけど、ヤツはもちろんのこと、堤さんもまた、私を待ったりはせずにその場を離れてくれるんだろうと思った。私もまた都合良く、曖昧で、矛盾した言動をとっていた。

 だが個室に入り、自分の身体が生成した汚物を見下ろした途端、ヤツへ果敢に挑んだときよりも、堤さんから褒めちぎられたときよりも、誇らしい夢心地に包まれた。頭蓋骨に詰まった臓器があんなくだらない人間に思い悩んでいる間、その下の方では淡々と、着実に、いらないものを振り分けて排出する準備を進めていたのだ。

 私という奴は案外、自分が思っている以上に器用なのかもしれない。ならば多少くだらない挑発に惑わされても、言動に一貫性を欠いてしまっても、いいような気がする。いや、よくはないだろう。よくはないのだ。だけどたまにはこうして、自分のことを都合良くだましてやってもいいのかもしれない。

 愛すべき汚れた股ぐらを丹念に清めながら、無用なものとして吸い込まれる大便と経血がこれからたどる旅路について、そしてまたそのうちやってくるに違いないヤツへの苛立ちについて思いを馳せる。誰かが入ってくる物音がするまでの間、私は「大」のボタンをぼんやり眺めて過ごした。

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