3.緋と翠

 第一階層イノン。

 魔界の最前部に位置するこの広大な砂漠は、今日も一切の曇りなく灼熱の大地を黄金色に輝かせている。灼けた砂地に植物などはもちろん存在せず、僅かばかりの湧き水と大小様々な岩石地帯があちらこちらに存在しているだけだ。

 

 そんな過酷な環境下、砂漠のほぼ中心部に明らかに人為的に岩石が積まれている地帯がある。

 その岩石群は自然形に丸みを帯びたものではなく長方形に切り揃えられたものばかり。空からの熱視線を遮るようにアーチ状に積まれた内部は、足元を石畳のように岩石が敷き詰められ、外部とは異なり快適な温度が維持されている。空から降り注ぐ熱と地熱は、反熱石と呼ばれる鉱石によってそのほとんどが遮断されているからだ。


 室内の奥には目新しい玉座。緋色の鉱石が各所に散りばめられ、燦然たる輝きを放っている。

 玉座の隣には、太く長い鼻をゆらりと揺らす巨大な魔物。鼻の脇からはククリ刀のような象牙が二本。全身を骨のような外骨格に覆われており、第一階層に住む他の魔物とは規格外の強さをその身に宿している。

 名をビヒディン。象に似た姿をした緋の魔王の眷属は、我が主の帰りを今か今かと待ちわびているかのように、玉座の隣で不動を貫いていた。


「遅いね、ビヒちゃん」


 ビヒディンの硬皮を撫でながら、細い声が囁く。

 肩まで伸びた朱色のサイドパートを揺らし、不満げな顔をしている彼女は誰も座っていない玉座に目をやる。


(無間ってそんなに遠いのかな……? それとも、聖戦の事で何かあったのかな……)


 ビヒディンも彼女も、同じ人物を待っている。

 朱色の瞳を持つ彼女は、幼馴染である彼の留守をビヒディンと共に預かっていた。


 ――そこへ突如、何もなかった空間から純白の扉が現れる。

 玉座の前に出現したそれは、第一階層には似合わない厳かな扉。


「えっ……な、何!?」


 扉はすぐに開いた。そしてそこから、ゆったりとしたシルエットの黒い脚部が姿を現す。視線を上にやると白地の裾が長いシャツ。緋色の王威外套マントを肩から羽織ったその人物が、黄褐色の石畳に降り立った。


「ニ、ニエル……!?」

「あれ!? こ、ここは……!?」


 緋の魔王――ニエル。自身の居城に帰ってきたというのに、その表情はどこか驚いているように見える。

 気がつくと、いつしかニエルの背後にあった純白の扉は跡形もなく消えていた。


「えっと……ニエル、さっきの扉はいったい何?」

「僕にもわからないんだけど……。無間から出たと思ったら、ここに繋がってて……」

「ふぅん。よくわからないけど……とりあえず、おかえりなさい」

「うん、ただいま、アシュトレア。それとビヒディンも」


 主の帰還に、ビヒディンは羽のような耳をパタパタと動かす。ニエルは長い付き合いである眷属を微笑みながら優しく撫でると、小さく息を吐いて玉座に座る。

 第一階層を統べる緋の魔王だけが座る事を許されたものだというのに、どこか謙虚に座る姿はまだ初々しい。そこが彼のいい所でもあり、アシュトレアが密かに好意を持っている所だ。


「で、どうだった?」

「えーと……思ったよりも狭かったよ」

「そうじゃなくって、聖戦の事」

「あ、ゴメンゴメン。それは……」


 ニエルは目を泳がせながら言葉に詰まった。

 やはり無間で何かあったのか、とアシュトレアは推測する。しかし心優しい彼の事だ。自分たちに心配をかけないように、必死に言葉を選んでいるだけなのかもしれない。アシュトレアはただ静かに、ニエルの言葉を待った。


「実は……僕が聖戦に出られるかまだわからないんだ」

「……そう。まだ七大魔王になったばっかりだもんね。しょうがないよ」

「うん、そうだね……」


 煮え切れない返事だ。まだ何か大事な事を言ってないような違和感。しかしアシュトレアはそれに気づかないふりをする。

 アシュトレアも十二いる魔王の内の一人。以前であればニエルとも対等な立場であったが、今は違う。七大魔王になった今の彼と、ただの魔王であるアシュトレアでは目に見えない大きな壁がある。

 もちろん「そんな事は気にせず、今まで通りでいいよ」とニエルはいつも優しい言葉をかけてくれるのだが。


「バオォォォォォン!!!」


 突如、ニエルの隣にいるビヒディンが鳴き出した。

 普段は大人しい子のはず。特にニエルと一緒にいる時は、忠犬のように慎ましい。そんなビヒディンが、尾を鞭のようにしならせて鼻息を荒げている。まるで何者かに対して威嚇しているかのように。すると――


「やっほー、元気?」

「……!?」


 みどりの髪をさらりとなびかせた男が、垂れた目を細くして近づいてきていた。まるで友人に会いに来たかのように、にこやかに手を振りながら。


(いつ!? 一体どこから!? ううん、それよりも……)


 翠の魔王ヴェルフ。ニエルと同じく七大魔王の一人だ。第二階層を統べる魔王が、第一階層こんなところに何の用だと言うのか。

 すぐにニエルの顔色を窺うも、彼も自身と同じく驚いているようだった。つまりこの状況は予想外だという事。敵ではないとは思いながらも、アシュトレアは突然の来訪者に対して心の深くで警戒心を抱く。


「ヴェ、ヴェルフさん……!!」

「やぁ、ニエル君。それとアシュトレアちゃんも。今日も可愛いね~!」

「あ、ありがとうございます。わざわざ第一階層までお越しに来るとは……何用ですか?」


 アシュトレアは表面上の礼節を取り繕いながら探る。まさか私たちの顔を見る為だけに来たなんて事はないだろう。いや、でもヴェルフこの人はそういう性格だ。いつもおどけて、ふざけて、軽口を叩いたと思えば、見透かしているかのように急に心をえぐる。実のところ、アシュトレアの苦手なタイプだった。


「あれ~? ニエル君から聞いてないの?」

「い、いえ……何も」

「――ヴェルフさん。場所を変えませんか?」


 そう言ってニエルが庇うようにアシュトレアの前に立つ。背を向けている為に表情は見えないが、声色から察するにとても冷静だとは思えなかった。


「なんで? 別に場所なんてどこでもいいじゃん。あ、そうかわかった! 彼女にかっこ悪い所を見られたくないんだ? 仲良しだもんね、君たち。もしかしてそういう関係なのかな~?」

「僕たちは……そういうのじゃありません。それに彼女は――アシュトレアは聖戦には関係ないでしょう」

「ふぅん。じゃ、別に僕がアシュトレアちゃんを好きにしても君には関係ないってわけだ」

「……!」


 アシュトレアは全身に寒気を感じた。

 全身を舐め回されているように、垂れ目の奥に宿った翠色の視線を感じて。

 そして、目の前にいる幼馴染ニエルから放たれる悍ましい殺気を感じて。


「へぇ……君もそういう顔、出来るんだ。いいよ、場所を変えよう」

「……ありがとうございます」


 そしてニエルは振り返った。そこにあったのは、いつもの朗らかな微笑み。先程まで感じていた強烈な殺気は息を潜め、まるで何事もなかったとさえ思う。しかしいつもは鮮やかな彼の緋色の瞳が、今はほんの少し濁っているようにアシュトレアには見えた。

 しかしアシュトレアは何も口にしない。出来ない。

 目の前には七大魔王が二人。誰も明確に口には出していないが、これから何が行われようとしているのかは、おおよそ察しがつく。

 そこにアシュトレアの居場所などない。蚊帳の外にいる彼女は、ただニエルに向かって微笑み返す事しか出来なかった。


「じゃあ……行ってくるよ、アシュトレア。ビヒディンをよろしく」

「…………うん。待ってるね」


 返事はなく、ニエルは歩き出した。

 翠の魔王もそれに続く。

 残されたアシュトレアとビヒディンは誰も座っていない玉座に再び視線を移し、彼が無事で帰還する事を祈るだけだった。



 * * *



 第一階層、辺境地区。

 第二階層からほど近いこの場所は、時折目を覆いたくなるほどの砂塵が吹く荒れた地だ。さらさらとした足元の砂地も相まって、長居する者はほとんどいない寂れた砂漠。

 そんな場所に、ニエルは翠の魔王を引き連れてきた。

 狙いなど特にない。周りに誰もおらず、障害物などがなければどこでもよかった。幸い、第一階層にはそのような場所は山程ある。今回はたまたまここに来た――その程度の理由だ。

 ニエルは翠の魔王の正面に立つ事で、ここがである事を暗に告げる。


「ニエル君。ひとつ聞いていい?」

「なんでしょう?」

「君……本当に聖戦に出たいの?」

「……もちろん」

「へぇ。じゃあ仮に聖戦に出たとして…………君、勝てるの?」


 嘲笑いながら言われた言葉に、ニエルは僅かに眉を動かした。

 ヴェルフこの人の言いたい事はわかる。実力も経験も、七大魔王の中で一番下だというのは自覚している。だからと言って、何もかもを諦める訳にはいかない。

 魔界は強さが全て。強い者こそが正しいのだ。相手が誰であれ、自らの力を示さねば生き残れない。だからニエルは、静かに胸に闘志を宿した。


「勝ちますよ。もちろん――――ヴェルフさん、あなたにも」

「……! 言うねぇ。それが口だけじゃないか、ボクが確かめてあげるよ!」


 翠の魔王は砂地を一歩蹴り出した。するとすぐにニエルの目の前まで跳躍する。足元の不安定な場所だと言うのに、まるでバネで跳ねたかのように素早く力強い挙動。

 その跳躍に乗せた勢いある拳が、ニエルの腹部に深く突き刺さる。

 見事な先制だった。防御が間に合わなかったニエルは体を折り曲げ、苦しげに息を吐き出す。


(は、速い……! それに重い……! 油断してた訳じゃないけど、強い……!!)


 ニエルは顔を歪めつつ、目の前に立ったままの翠の魔王を睨む。

 追撃がない。手加減なのか、それとも甘く見ているのか。そのどちらにしても、さっきの一撃で二人の間にある実力差が明確になった。

 現時点では限りなく、ニエルの敗色濃厚。それを両者が自覚しているからこそ生まれる油断。それを突くしか光明はない。


「ハハハッ、流石にまだ終わりじゃないよね?」

「……えぇ!!」


 ニエルは左拳を真正面から振り抜く。

 最短距離で伸びた拳は、空気を切る音を残して翠の魔王の頬に向かう。

 直撃ヒット――その予感がニエルに訪れる。しかし直後に訪れた現実は、予感とはかけ離れたものだった。


(外した!? いや、それどころか……!?)


 翠の魔王は数メートル離れた場所で肩を竦めていた。もちろん、どこにも攻撃を受けた形跡はない。なぜならニエルの振り抜いた拳は、誰もいない空間を横切ったのだから。

 拳を振るう直前、翠の魔王に予備動作はなかった。ではなぜ一瞬であんな場所に動けたのか。その答えに、ニエルは心の中で舌を打つ。


「もしかして驚いてる? なんでボクが一瞬で君から離れられたのか……」

「……魔王因子ですか」

「なんだ、知ってるんだ」


 翠の魔王はわざとらしくガッカリした素振りを見せる。

 同じ魔王である以上、少し考えればわかる事だ。しかし翠の魔王因子がどのような能力を司っているのかまでは、ニエルにはわからない。そしてそれはヴェルフ向こうも同じ事。

 ニエルは瞳に宿る緋色を輝かせる。全身をとめどなく駆け巡る魔王因子が燃えるように熱を帯び、鮮やかな赤色の紋脈が顔面に現れた。これこそが、緋の魔王因子の発動である。


「じゃあ僕も……使わせてもらいます!」


 ニエルは体内に眠るエネルギーを爆発的に燃焼させ、通常時と比べて倍以上の筋力を一時的に得る。そしてその筋力は砂地に沈み込んだ脚部に込められた。直後、ニエルは跳んだ。一瞬で懐に飛び込む事に成功したニエルはすぐさま右拳を打つ。さきほど翠の魔王が見せた先制の一撃を彷彿とさせる瞬足の一撃だ。

 しかし翠の魔王は予見していたかのように防御の構えを作る。左腕でしっかりと固められた部位に、ニエルの右拳がめり込んだ。


(受けられた!? でも……!)


 ニエルは追撃する。

 息が続く限り攻撃を止めない。攻撃が止まらない限り、相手は防御をするしかない。防御されている内は、攻撃が来ることはない。つまり攻撃は最大の防御だ。

 体内に残されているエネルギーを燃やし尽くす勢いで、上下左右の打撃の連打を繰り出す。

 まさに一方的な攻勢。ニエルの頭の片隅に、勝利の文字がちらつく。しかしそれと同時に、あまりの手応えの無さに不安を抱く。


(やめろ、考えるな……! 攻撃は当たってるんだ、このまま連打を浴びせればきっと――――)


 突然、ニエルの連打が終わり迎えた。

 息が切れたのだ。急な戦闘に体の準備が出来ていなかったのか、それとも格上相手に緊張していたのかは定かではない。

 時間にして数十秒。いくらガードを固めたとはいえ、筋力を増強させた連打ラッシュを受け続けて無事でいられるわけがない。

 そう思ってニエルは、肩で大きく息をしながら目の前にいる相手を瞳に映した。


「…………そ、そんな」


 そこにいたのは苦笑いした無傷の翠の魔王。

 体を手で払い、首を左右に傾けては骨を鳴らしている。


(う、嘘だ……! 確かに攻撃は当たってた! これは一体!?)

「いやぁ~、頑張ったねニエル君。やれば出来るじゃん。相当疲れたでしょ? 並の相手ならさっきのでヤラれててもおかしくないよ。でも……ボクには届かなかったけどね」

「……!?」

「ホントはもっとじっくり実力の差を思い知らせてあげて、先輩の威厳ってやつを見せつけてやろうと思ってたんだけど……。もういいよね? 手加減無しで」


 翠の魔王は薄ら笑いを浮かべる。今まで見せていた笑顔全てが偽物なのではないかと思えてしまうほど、悪意のこもった醜悪な笑み。

 全身に浴びせられる強烈な敵意に、ニエルは視線どころか全身を動かせない。筋繊維一本一本が、緊張と恐怖で強張っているかのようだった。


(う、動けない……凄い威圧感だ……! これが七大魔王……!!)


 すると、翠の魔王の姿が消えた。

 いや、消えたのではない。見えなかったのだ。

 先制の時よりも早く、強く。一瞬で目の前まで接近した相手に、ニエルは何も反応できなかった。そしてお互いが一切触れていないにも関わらず、ニエルは遥か後方へと吹き飛ばされている事に気づく。

 まるで見えない何かにぶつかったような衝撃。全身を襲う鈍痛。正体不明のダメージに思考が混乱する。


(うぐっ……! こ、これは……!?)


 数十メートル後ろに吹き飛ばされた先で、ニエルは右手で口元を拭う。手の甲には鮮血がべっとりと付いていた。足は小刻みに震え、視線が定まらない。まださっきのダメージが抜けきっていないようだ。

 ゆっくりと歩きながら近づいてくる翠の魔王になんとか向き合うが、闘う意志とは裏腹に体の準備は整っていない。

 その証拠に、突然目の前まで急接近していた翠の魔王に全く反応できずに顔面への打撃を喰らう。重く、突き刺さるような痛みがニエルの顔面左半分を支配する。


「あれ~? 意外と大した事ないんだね。ちょっとガッカリだよ。あと二発……いや、一発で終わりかな?」

「……ぐっ、がはっ! うぅっ…………はぁ、はぁ……ま、まだ僕は…………戦え……ますよ……!」

「いやいや、素直に認めなよ。今の君じゃ、聖戦どころかボクに一撃食らわす事も出来てないじゃん。わかった? これが――――君の実力強さだ」


 蔑んだような冷えた視線がニエルに突き刺さる。

 翠の魔王の言う通り、これが今のニエルの実力だ。そんな事は自分自身が一番よくわかっている。このままじゃダメだという事。このままじゃ七大魔王として失格だという事。このままじゃ――


(もう、やめよう。僕は…………)


 ニエルの全身に緋の魔王因子が強く発現する。赤く燃ゆる威圧感が、まるで幻の炎のようにニエルを覆う。

 緋の魔王因子が司る能力は『燃焼』

 ニエルの意志によってあらゆるモノを燃焼させる異能チカラだ。ニエルの纏う闘志がエネルギーとなり、まるで炎の鎧を纏っているかのように燃え盛る。


「……! やらせないよ」


 翠の魔王は反射的に身の危険を感じたのか、一切の躊躇なくニエルの腹部に強烈な蹴りを見舞う。


「がはっ……!」


 くの字に折れ曲がったニエルは体内に残っていた空気を吐き出した。纏っていた全身の闘気は燻ったように鎮火していく。

 黄金色の地面に、数滴の赤い染みが滲む。痙攣し始めた右手を静めるかのように左手で抑えこみ、両足に力を込めて立ち上がろうとする。しかし足はガクガクと震え、うまく力が入らない。そのまま砂地に足元を取られ、ニエルはうつ伏せに倒れてしまった。


「あーあ。もう終わりかな? 残念」


 近くで翠の魔王の声が聞こえているが、顔を上げる事が出来ない。

 やはり翠の魔王は強かった。それに、おそらく本当の実力はまだ隠したままだろう。その事実が、今のニエルと七大魔王ヴェルフの実力差だ。

 遠い。ニエルの目指す場所はまだまだ遠い。わかっていたはずだった。しかし思い知らされた。

 強い者こそが正しいこの世界。今のニエルは黒を白に変える力を持たない。

 しかし諦める事はしない。同じ赫の魔王因子を受け継ぐ兄を無限獄から解き放つまでは――――


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