序章・下

 聖戦開始まで――――九十六時間と十分。


 ヒルデが再び意識を取り戻したのは、気を失ってから数分とも経たない後。暗闇の中、椅子に座っている状態だった。


(――わ、私……どうやって…………!? あ、そっか…………まだ、使命を全うできていないんだ。だからあの御方に………………)


 ヒルデは宣告者として召された使命を全うするまで、その生命が失われる事はない。なぜなら、神がそれを許さないからだ。しかし今ここにヒルデがこうして座っている理由は、神の御業によるものではない。そしてそれを、ヒルデが知る由もない。


 ヒルデの視界に、白妙しろたえの火を揺らす燭台が目に入る。机上にあるその薄明が、暗闇だった部屋の全容を僅かばかり明らかにした。

 ヒルデの前には長方形の長机。いかなる傷も通さない強魔石で出来た特別な物らしい。百年前と同じその長机の短辺に、ヒルデは座っている。

 その対辺――ヒルデの向かいには、玉座に深く腰を下ろした長髪の人物が、腕を組み瞼を閉じていた。


(あ、このひと…………えーっと確か……しろがねの魔王……だったかな)


 ヒルデは黙りふける銀の魔王に目を奪われる。もしかすると既に約束の時間がきてしまったのだろうか、という焦りは後からやってきた。

 慌てて胸元に忍ばせておいた懐中時計を見やると、約束の時間より十分前。ヒルデは心の中で安堵の吐息をつきつつ、再び銀の魔王に視線を移す。


(約束の時間より早く来てくれた、って事ね。魔王ってもっと時間にルーズだと思ってた……それにしても――――)


 何という美貌だろうか。男らしくも六花のごとく美しい端整な顔立ちに、白銀の長髪が半面を隠すように垂れている。たとえ薄明の中であっても、その美貌は埋もれる事はない。百年前にヒルデが抱いた印象は「完璧な美形」

 そんな羨望にも似たヒルデの視線を感じ取った銀の魔王は、瞼をゆっくりと開いた。


「…………私に何か?」


 銀灰色の瞳を宿す切れ長の目がヒルデを捉える。低くも落ち着きのある声。その一声だけで、魔王としての格の高さを感じさせる。


「し、失礼しました……ルシフェル様。どうぞお気になさらず……」

「……そうか」


 ヒルデの心に羞恥心が遅れてやってくる。宣告者という立場でありながら私は何をしているんだ、という自責の念も込めて。

 しかし約束の時間まであと十分。それまで沈黙のまま過ごすというのも、ヒルデには許容できるものではなかった。


「あの……残りのお方はまだでしょうか?」

「見ての通りだ。時間通りに来る方が稀な奴らに、予定より先に来る事など期待してはいけない」

「そ、そうですか……はは…………」


 ヒルデの乾いた笑いだけがこの空間に響く。

 長机の長辺は空席のまま。一辺に三つの玉座、それが向かい合わせに計六つ並べてある。空席の玉座と、明かりのない燭台。それらは主の到着を待っているかのように、ヒルデの目には映った。


 ――五分後。

 ヒルデの苦笑いが響いてからずっと沈黙が続いたままの部屋に突如、光が差した。気配から察するに、この部屋に入る為の扉が開いたのだとヒルデはすぐに理解する。

 ガタ、ガタ、という足音と、ジャリンという金属音。それが聞こえなくなると、机上の燭台に琥珀色の火が灯る。ズシンっ、という音がよく似合う体躯の良い魔王が、長辺の端にある玉座に腰掛けた。


(凄い気迫……それに険しい表情。うぅん……せっかく来てくれたけど、すごく話しかけにくい……)


 の魔王――アスラデウス。

 ヒルデが現在、チラチラと顔色を窺っている魔王の名だ。

 左右に垂らした前髪と、黄色の逆立つ髪。頭部には山羊のような捻じ曲がった角を生やしており、一点を見つめたままの金色の瞳には一切の曇りがない。百年前にヒルデが抱いた印象は「近寄りがたい系の美形」


 直後、アスラデウスに続くようにもう一人の魔王が入室した。

 ドタドタとした乱雑な足音。その足音の主はすぐに玉座についた。それと共に、燭台にすみれ色の火が宿る。


「なんだぁ? オレ様が三番目かよ」


 既に席に着いていた魔王二人は、チラリと一瞥だけして無言のまま。それほど仲が良くないのだろうか、とヒルデは僅かに不安が募る。


(えーと……すみれの魔王、アモン――だったわね。相変わらず横暴そうな見た目。男らしいと言えば男らしいけど……)


 ヒルデは心の中で、アスラデウスの向かいに座った魔王の名を確認した。

 アスラデウスに負けず劣らずの筋肉質な体躯。そのうえ、上半身裸で薄褐色の肌。瞳と同じ菫色の髪をかきあげて、呑気にあくびをしている。大口を開けた隙間からは、鋭い八重歯が確認できた。百年前にヒルデが抱いた印象は「俺様な美形」


(時間まであともう少し。でもまだ三人しか集まってない……はぁ、大丈夫かなぁ…………)


 心の中で大きくため息をつく。ヒルデは目の前の机をぼんやり眺めて、その時が来るのを待つ。

 すると、机上の燭台にまた一つ明かりが点いた。

 ヒルデは慌てて玉座を確認する。先程まで空席だったアモンの隣――そこに黒づくめの魔王が、ヒルデの気付かぬ内に存在していた。燭台には紫黒の火が灯っている。


(えぇぇ!? い、一体いつからそこに…………!? しかも他の魔王の方々もノーリアクション!?)


 驚きを必死に抑え込むヒルデ。しかしその熱い目線は、黒い魔王に向けられたまま。無言を貫く黒い魔王は、何か言いたげに三白眼の黒い瞳をヒルデに返す。


(し、しまった……怒られる……!! 黒の魔王――ベルゼビア。七大魔王の中でも、銀の魔王と並ぶ強大な魔王。そんな魔王ひとに睨まれちゃった……!!)


 しかしベルゼビアは何事もなかったかのように、ヒルデから視線を外した。

 毛先が緩く乱れた涅色くりいろの髪。口元まで覆う黒のコートのお陰で、表情は読みづらい。百年前にヒルデが抱いた印象は「無口な美形」

 とりあえず大事にならなかったのを確信したヒルデは、ホッと胸を撫で下ろす。

 そこへ、厳かなこの空間に似合わない二つの軽快な声がヒルデの耳に届いた。


「ちわーす!!」

「うぃーす――――って、あれっ? みんな早くね?」

「違うって、リヴァイア先輩。みんなが早いんじゃなくて、ボクらが遅いんだよ!」

「マジか。うわー、お前らガチじゃん。引くわー」


 軽口を叩いた二人は、ルシフェルに軽く睨まれながらも玉座に座る。同時に、紺青と翠色の火が燭台に灯った。

 アスラデウスの隣に座ったのは、みどりの魔王――ヴェルフ。サラリとした爽やかな翠色の髪と、翠の瞳を宿した垂れ目。左目の下辺りに、牡牛座のシンボルをモチーフにしたタトゥーが彫られている。百年前にヒルデが抱いた印象は「可愛い美形」


 そんなヴェルフの隣に座ったのは、あおの魔王――リヴァイア。

 深い蒼眼に、蒼く爽やかな短髪。タンクトップという軽装と両耳に飾られた金色のピアスが、魔王らしからぬ好青年の雰囲気を醸し出している。百年前にヒルデが抱いた印象は「爽やかな美形」


「オレらで最後――って訳じゃねぇんだな」

「あぁ……まだがいる」


 リヴァイアの問いに、ルシフェルが素っ気なく答える。

 百年前の記憶では、残り一人はあかの魔王。例年通りなら、今回もそのはずだ。しかしもう時間がない。残り二分……ヒルデは懐中時計に目を移し思案する。

 約束の時間は絶対である。神以外の都合によって一切の変更は許されない。もし時間に遅れるような事があれば、その時は現状の人数で参加してもらうしかない。


「あのぉ……来ますよね? 赫の魔王……」

「赫? 残念だけど、そんな魔王は来ないよ」

「えっ……!?」


 ヴェルフが飄々ひょうひょうと言った内容に、ヒルデは言葉を失う。

 赫の魔王が来ない――そんな事実は、あの御方から聞かされていない。という事はつまり、神すらも知り得ない事態が起こったか。それとも単に、翠の魔王が嘘をついただけか。ヒルデは表情を暗くする。


「誤解を招く言い方はよせ、ヴェルフ」

「へへへっ、でも間違った事は言ってないっしょ? ルシフェル先輩」

「……ふん。宣告者よ、赫の魔王は来ない……それは事実だ。しかし、代わりが来る。新たに七大魔王に名を連ねた者が、な」

「代わり……ですか」


 なるほど、それなら合点がいく、とヒルデは小さく頷く。

 だがそれは、約束の時間に間に合った場合の話だ。期限リミットまで、あと一分。


「もういいじゃねぇか! さっさと始めてくれよ!!」

「アモンの言う事もわからなくはねぇが……ま、オレはどっちでもいいぜ」

「リヴァイア先輩~、適当すぎっしょ!」


 両足を机に乗せて退屈そうにするアモン。リヴァイアとヴェルフは場を弁えず談笑している。その光景に険しい顔のまま目を瞑るアスラデウス。無言でただぼーっと燭台の火を見つめるベルゼビア。そして両手を机上で組み、瞼を閉じたまま時間を待つルシフェル。

 宣告者であるヒルデには到底理解できない、規律も何もない異様な雰囲気だ。


 しかしヒルデは瞬時に理解する。この場にいる彼らは、各々が強大な力を持つ魔王。普通の概念では縛る事も、測る事も到底及ばない規格外の存在なのだ。

 魔界に存在する十二の魔王の内、特に強大な力を持つ者達、それが彼ら――七大魔王。魔王が代々引き継ぐ因子の色になぞらえ、赫、蒼、翠、輝、菫、黒、銀……と、色を冠した異名を持つ。


(あと残り数秒……しかたない、一人足りないけど今回は現状のままで――)


 ヒルデが口を開こうとした刹那、それより早くルシフェルが声を出した。


「――――時間だ。早く入れ」


 ルシフェルの銀灰色の瞳は、ヒルデの奥へと向けられている。

 何者かの気配を感じ、振り向くヒルデ。そこには小さく息を切らした、緋色のをした魔王が立ち尽くしていた。



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