叛逆のアーマゲドン〜Seven Satans of Rebellion

幕画ふぃん

序章・上

 ――静寂。

 宣告者は、神によって招かざる地へと召喚された。


 そこは空白だった。見下ろしても、見上げても、何も存在しない。何も無い――ただそれだけの真っ白な空間だ。

 だが、天と地は確かにそこにある。ガラスで出来たパンプスを踏み出す度に小さな波紋が生まれ、歩き進められている。

 歩いても歩いても、当て所なく途方も無い道のり。どこを見渡しても幻のように白が続く。無限かと思えるそれは、唐突に終わりを迎えた。


「…………あ、あった。これだ」


 宣告者の前に存在する両開きの扉。真っ白な空間に浮かぶように存在する巨大な暗褐色のそれは、魔界へと繋がる唯一の入り口。

 別名――ミノスの門。宣告者が訪れるのはこれで二度目となる。


「う~……百年ぶりかぁ~…………なんか緊張するなぁ」


 重厚な扉の全容を、彩色に煌めく宣告者の瞳に映す。

 左右の扉中央には、叫喚しているかのように顎を大きく開いた頭蓋。その下部、訪れた者を威嚇するように大小さまざまな牙がびっしりと並んでいる。悍ましさの具現とも言えるその扉の前に足を運んだ宣告者は、捻じ巻く角で造られた持ち手を握る。だが淡紅色をした細い手には、少しの躊躇があった。

 この先は異形蔓延はびこる魔界。遥か上位界に住まう宣告者にとって、居心地の良い場所ではない。しかしこれは神の意志。天界、人界、魔界――――それらを繋ぐ、千年続く伝統だ。そこに個人の畏れや戸惑いが介入するなど、あってはならない。

 自身を鼓舞するようにゆっくりと瞬きをした宣告者は、覚悟を決める。


(私は……宣告者メッセンジャー。きっと百年後も、再びこの地へ来る事になる。頑張りなさいヒルデ!! もう…………慣れるしかないのよ!!)


 宣告者――ヒルデは碧色のポニーテールを揺らし、握った手に力を込めて扉を押す。気圧される見た目とは裏腹に、扉は軽い。足を一歩踏み入れた瞬間、既にヒルデは魔界に入っていた。


「……っ!! えーと、ここが確か第一階層ね」


 それほど大きくない胸元から、折り畳まれたメモ書きを取り出す。そこに乱雑に書かれているのは、簡単な地図と目的地である最奥部へのルート。もちろん、これを書いたのは百年前のヒルデ自身だ。

 百年前……初めて魔界へ来る際に上位者から簡単な説明は受けていたが、口で教えてもらうのと、いざ実際に見るのとでは違う。魔界を縦断する大冒険の末に、約束の時間ギリギリに目的地に着いたのは今となっては良い思い出だ。

 そんな苦労の末に作り上げたお手製のルートを頼りに、ヒルデは歩き出す。


「んー……歩きにくい…………」


 足元は砂漠。見渡しても砂漠。太陽があるわけでもないが、じんわりと汗が滲むような暑さ。ガラスのパンプスでは場違いにも程があるだろう。しかし第一階層ここはただの通過点。一時的な歩きにくさなど、最終目的地で必要なドレスコードを考慮すれば大きな問題とはならない。

 

 婉美な肌に汗を浮かばせながら、ヒルデはただ真っ直ぐに歩みを進める。

 階層と名が付いているが、その実、魔界は平面だ。上に登る訳でもなく、地下へ潜るでもない。ただ奥へ向かって扉で仕切られた階層が続いているのみだ。

 階層は全部で十。ここ――イノンは、全面が砂漠の第一階層である。魔界で一番広く、何もない枯れた大地があるだけ。そして、時の流れは止まっているかのように極めて遅い。


 ただ無心で歩き、しばらく経った時。ヒルデは目の前に現れた一つの扉に、ホッと胸を撫で下ろす。自身が作ったルートが間違いではなかった、と。そして今回は約束に時間に余裕を持って到着できそうだ、と。


「――で、次が第二階層……ウェントスね」


 ――これより先、第二階層。

 そう書かれた掛け札が揺れて扉が開く。ミノスの門と比べると、小さく見窄らしい扉。ヒルデは躊躇なく前進する。

 緊張や不安はどこかへ消えていた。十ある階層の内、まだ前半。こんな所で神経をすり減らしてはいけない。後半の階層――とくに第八以降はまるで格が違う。その地に住まう者、環境、そして治める者。それらを思えば、現在ヒルデがいる階層は生温い。


 扉を抜けると、景色がガラッと変わる。

 足元には新緑の短草が生い茂り、辺り一面には花木が繁茂している。風に揺られ、そよぐ木々。鼻に辿る豊穣の香りがヒルデの心を落ち着かせた。

 ここウェントスがヒルデにとって唯一、心地良いと思える階層である。第一階層イノンとは打って変わって、自然に囲まれた恵みの地。視界に入る異形の者たちも、穏やかなひとときを過ごしているようだ。

 ただ一つ懸念があるとすれば、風が止まない事。そよ風のような微風から、体を揺らす程の暴風。幾つものバリエーションを織り交ぜながら、階層全体を常に風が支配している。

 ここでは髪のセットは無意味。ヒルデのメモ書きにはそう記してあった。


「ふぅ……やっと第三階層ね」


 ボソっと呟いたヒルデは第三階層に足を踏み入れた。自身でも驚くほど、順調に進んでいる。しかし決して気を抜く事はない。

 メモには「第三階層ストゥルティ、魔物に注意」と書いてある。この階層には凶暴で、醜悪で、異形の魔物達が至る所に闊歩しているのだ。

 特に意味はないが、ヒルデは息を潜めて歩き出す。夕暮れのように辺りはほんのり薄暗い。至る所に存在する墓標のような置物の間を縫って、ヒルデは最短距離で次の階層を目指す。


 もう少しで第四階層――――そう思ったヒルデの前に、それは現れた。

 全身を覆う黒漆の毛。大地を踏みしめる筋肉質な四つの巨脚。紫炎のように大きく揺れる尾。灰色に広がるたてがみから伸びる三つの頭部。猩々緋しょうじょうひを宿す計六つの瞳が、ヒルデを睥睨へいげいする。

 その名はケルベロス。第三階層に生息する強大な魔物の一つだ。黒革で出来た金縁の首輪を身につけ、唸り声を漏らす。

 その時「ポチ」と彫られたプレートが首輪に掛けられているのを発見したヒルデは、思わず乙女のような小さな声を上げた。


(ポチ……!? まさかこのケルベロス、誰かのペットなの……!?)


 するとヒルデの声に呼び寄せられたように、見上げる程の巨体がヒルデの傍らにゆらりと近づく。目の前に数滴のよだれが落ちた。刺激をしてはならない――そう直感が働いた。

 それから数刻、興味が失せたように踵を返すケルベロス。地面すれすれに尾を揺らしながら去る後ろ姿は、さながら相手にされず拗ねた大型犬のように思えた。

 安堵したヒルデは、早歩きで第四階層へと続く扉に飛び込んだ。



* * *



(第四階層、アバルス……。この前来た時も驚いたけど、この階層だけやけに雰囲気が違うのよね。繁華街というか、商店街というか……とにかく明るいっていうか……)


 ヒルデは周りの景色に目を泳がせる事なく、前進していく。

 第四階層は、入るとすぐ一本の大通りが真っ直ぐに伸びている。その道を挟むように、種々雑多な商店と異形の住人が群をなす魔界随一の商業区。ヒルデの言う繁華街というのは、あながち間違いではない。

 特に何事も起こらずスムーズに第四階層を抜けたヒルデは、行き当たった先の扉の前でしばし固まる。


(ここから先は後半層……前回来た時も、ここから先を進むのに凄く疲れたのを覚えてる…………さっ、気合を入れ直すのよ! いけいけヒルダ!! ゴーゴーヒルダ!!!)


 再び自身を鼓舞したヒルダは、第五階層へ続く錆色の両開き扉を開く。

 足を踏み入れた瞬間、ガラスのパンプスが捉えたのは泥だった。土色の水滴が撥ねて足元を汚していくが、ヒルデは意にかけない。しかし水気を多量に含んだ弛い地面は、どこに足を着けても踏み進める力を逃がしてしまう。


 第五階層――イラ。ヒルデのメモ書きに「癖毛の敵」と記されているこの階層は、絶え間なく雨が降り注いでいる。地に埋まった瓦礫の数々、這うように枝を伸ばす歪な樹木、朽葉色の大小ひしめく沼。それらをかき分け、ヒルデは深部へと目指す。だが、肌を撫で続ける水滴とまとわりつく湿気がヒルデの体力を少しづつ奪っていく。

 第六階層まではあと僅か。無心で進むヒルデの前に、ようやく扉が現れた。


 その扉は大理石で造られた強固なものだった。

 扉の脇に槍を構えた石像が二対。頭部は牛の頭蓋、体は巨人という異形である。あまりに精巧に造られた石像は、今にも動き出しそうな威圧感を放っている。

 小さく息の呑んだヒルデは、二対の石像を視界の隅に入れつつ石扉を押した。ゴゴゴ……という音と共に、ゆっくりと扉が開かれる。


 そして景色が変わった瞬間――ヒルデの耳に入ってきたのは、怒号が混じった喚声。

 環状に広がる光景の中央には、異形の魔物が二体向かい合っている。かと思えば、魔物たちは互いに組み合い、けたたましい唸り声を轟かせた。その有様に触発され、喚声は一際ボルテージが上がる。

 歓喜と狂気。その二つが入り混じったここは、第六階層――ディーテ。選ばれし魔物たちが日々闘争を繰り広げる魔界屈指の嗜好の場。わかりやすく言うなれば、闘技場だ。

 ヒルデは戦いの邪魔にならぬ様、壁つたいに向こう側にある扉を目指す。中央で行われている盛り上がりのお陰で、観客たちに一切気付かれる事なくヒルデは次の階層へと続く扉に到着した。

 入り口と同じく強固な石造りの扉。ヒルデは息を潜めながら、押す手に力を込めた。


 扉の向こう側にあったもの。それはオアシスだった。

 白い砂浜、その向こうに広がる碧海。各所に屹立している細葉を垂らす樹木。柔らかな潮風が、ヒルデのポニーテールを揺らす。第五階層で濡れていた全身は、いつしか乾いていた。


(第七階層ディヴィタ……ここだけ見れば最高のビーチ。だけど、私が目指す先はこの海の向こう…………うぅ、あと二階層……根性見せるわよ!!!)


 ヒルデは薄青の羽衣とパンプスを脱ぎ捨て、持ち運んでいたリュックにしまう。調律者にあるまじき、はだけた水着姿になった理由はただ一つだ。


(この前もなんとか泳ぎきったし、今回もイケるはず……! それに、ここを乗り越えないと次には進めない。私の仕事はずっとこの先にあるんだから……!!)


 屈伸、背伸び。ストレッチを入念に行う。ゴーグルに帽子、防水性のリュック、準備は万全。メモ書きに「水泳の準備」と記されていたのだから当然だ。

 ヒルデは砂浜を駆け出し、勢いよく海へ走り込んだ。波は穏やか、深くまで澄み渡る海水。冷たすぎない適度な水温の中、軽快にクロールを繰り出す。この日の為にスイミングスクールで遠泳を特訓した思い出を蘇らせつつ、確実に前進していった。

 道中、水面近くを泳ぐクラーケンやマーメイドなどと遭遇したりもするが、ヒルデは集中を切らす事なく泳ぎ続ける。


 しばらく泳ぎ続けると、前方に小さな孤島が目に入る。あれこそが、次の階層へと続く扉のある孤島。

 息を切らしつつ、孤島に上陸したヒルデ。すかさずリュックに中に忍ばせておいた吸水性の高いタオルで全身を拭く。再び羽衣に着替え、手鏡と櫛で身だしなみの確認。これから向かう先は第八階層。色んな意味で危険地帯だ。

 ふぅ、と息を吐き出し呼吸を整えたヒルデは、オアシスにポツンと存在する異様な雰囲気を放つ漆黒の扉に手をかけた。


 ギギィ……という木が軋む音。

 その音の先は闇だ。第八階層――マレボルゲ。常に闇が支配する常夜の地。

 獲物を狙っているかのような鋭い眼光がそこかしこに潜み、頭上には奇声をあげる何かが飛び回っている。足元には何者かの骨の一部。それが道に転がる小石のように散乱し、至る所で第八階層の持つ不気味さを物語っている。

 ヒルデはルートの確認の為にメモ書きを至近距離で凝視するも、アテになるのは等間隔に備えられた薄暗い街灯だけだ。進むべき道をかろうじて教えてくれる光に導かれ、ヒルデは歩みを進める。


(暗いよ~……怖いよ~…………)


 暗い所というのは本能的に恐怖を覚える。宣告者であるヒルデにとっても、それは例外ではない。むしろ他の者よりも暗い所と高い所は苦手な部類だ。

 だが今はそんな泣き言は通用しない。宣告者としての使命を果たすまでは、前進あるのみ。

 そのまま進んでいくと、鋭い枝が残る枯れ木が乱立する地帯に差し掛かった。


(確かここを抜けると、第九階層への扉が待っているはず……)


 ヒルデは百年前の記憶を辿る。

 その記憶の通り、まもなくして黒褐色の古びた扉がヒルデの前に現れた。光を一切映さない暗澹たる壁に、ポツンと存在するその扉。百年前と同じく、扉一面に文字がなぐり書きされている。

「このさきコキュートス」「引き返すなら今のうち」「クソロン毛野郎」「防寒必須」「危険」「凍死に注意」「諦めないで」

 などといった注意書きが所狭しと埋め尽くされていた。中にはただの悪口ではないかと思うような部分もあるが、ヒルデには関係のない事。気にせず、扉を開ける。



 第九階層――――コキュートス。

 魔界の奥部に位置するその階層は、白魔が荒れ狂う極寒の極地。見渡す限り白銀に覆われ、並の生物では存在する事すら困難を極める。

 そんな地に百年ぶりに足を踏み入れたヒルデは、全身を刺すような凍てつく凍気に表情を歪める。


(さささささささささささ寒っぶい……!!!!!!!!!! もう無理!!!!! 帰りたい!!!!!)


 汗をかき、雨に濡れ、海を泳ぎ、その果てに待っていた極寒。いくら神の御業を賜っている宣告者であっても、蓄積した疲労は足を重くさせる。手で視界を確保しながら前へと進むが、ガラスのパンプスなどという軽装では足元が覚束ない。

 ふと、凍てついた木々の傍に豪雪に埋もれた異形の成れの果てを見つけた。

 ヒルデは眉をひそめる。気を抜くと自分もこうなるのではないか、という焦燥が胸を襲う。


(もう少し……あと少しのはず…………! 私は……あの御方に与えれれた使命を……全うしなければ………………!!)


 気が遠くなる刹那――――ぼやけ始めた視界に、純白の扉が映る。

 あれこそが第九階層最奥部へと通ずる扉――トロメアの門。ヒルデの目的地であり、百年に一度、神に召された宣告者と魔界を統べる七人の魔王が集う場所。


(……良かった………………約束の時間までに…………着い――――)


 銀雪積もる結晶の持ち手に手をかけたヒルデは、そこで意識を失った。

 体はとうの前に限界だった。しかし、神から与された宣告者としての使命は果たさなければならない。その意志が、まるで残滓のごとく無意識に指を動かせる。


 僅かに開いた扉の隙間、そこからヒルデを見下すしろがねの眼差し。

 そこから出でた長身の男は、あっという間に雪に覆われたヒルデを軽く持ち上げる。

 そして――――トロメアの門、その奥へと消えていった。

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