七草粥

増田朋美

七草粥

寒い日だった。その日、駅員の仕事が休みで良かったと由紀子は思った。こんな寒い日には、駅員として、屋根のない駅に立っていたら、それこそ、体の芯まで冷え切ってしまうような気がする。

そんな寒い日だからこそ、家にいようという人も居るのだろうが、由紀子は水穂さんのそばにいてやりたいと思ってしまうのだった。水穂さんがなんだか寂しがるのではないかというか、そんな気持ちが湧いてしまうのである。

由紀子は、ポンコツの車に、エアコンをうるさいくらいかけて、急いで製鉄所に向かった。こんな寒い日だから、製鉄所の利用者も数人しかいないと思った。製鉄所と言っても、勉強したりとか、仕事したりする場所を提供している建物である。もう、これほど寒いのだから、仕事や勉強をしようとする気にもならないだろうし、そういうわけで製鉄所の利用者も少ないのだろうなと思っていたが。

「おい、食べろ!」

と、由紀子が、製鉄所の玄関の引き戸を開けると、杉ちゃんの声がした。多分、食べろと言っているんだから、水穂さんにご飯を食べさせようとしているんだろう。由紀子は、お邪魔しますと言って、すぐに靴を脱いで製鉄所の中へ入った。玄関先に、利用者の靴が置かれていたが、それがいつもより多いことに気がついた。由紀子は、一瞬だけなんだろうと思ったが、水穂さんの事が心配で、すぐに忘れてしまった。急いで、四畳半に行ってみると、ふすまの前で、二人の女性利用者たちが、心配そうな顔をして、中を覗いているのが見える。彼女たちは、なぜ覗いているのだろう。好奇心だろうか?それとも、水穂さんを心配しているのだろうか?前者であったら、由紀子は、ちょっと嫌な気持ちになるのだった。

「ああ、由紀子さん。」

と、女性たちは、由紀子がやって来たのに気がついた。

「どうしたの?水穂さん、また何かあったの?」

と由紀子が聞くと、

「ええ。今日七草粥の日ですよね、杉ちゃん気合い入れて、つくってくれたのに、水穂さんたら、全然食べないんですよ。」

と、利用者の一人が、そういう事を言った。

「どうして?どうして食べないの?」

と由紀子が聞くと、

「ええ。なんでも、自分はお祝いごとに関わる資格などないと言って。」

と、もうひとりの利用者が言った。

「そんな、資格がないって、食べなきゃいけないのに、なんで食べないのかしら?」

由紀子は驚いてそういうのであるが、

「あたしたちだって、おんなじこと考えてますよ。水穂さん、全然食べてくれないんですから。このままだと、本当に餓死しちゃいますよ。」

と、最初の利用者が言った。由紀子は、彼女に返事もしないで、失礼とも言わないで、ふすまを開けて四畳半に入ってしまった。

由紀子が中にはいると、水穂さんは、えらく咳き込んでいた。杉ちゃんが、ああほれほれ、と言いながら、口元に膿盆をあてがってやっていた。由紀子は、急いで、水穂さんの背中を擦ってあげた。

「ほらあ、しっかりせい。せめて餅一つでも食べれば体力付くんだけどな。これじゃあ、いつまで経っても、変わんないで、そのままで居るだろうな。」

杉ちゃんはそう言うが、由紀子は、こういう時、何も言わないでただ膿盆をあてがってやるだけのほうが、良いのではないかと思った。何かグチグチ小言を言うのは、水穂さんが可哀想な気がする。

「こんにちは。」

と、いきなり玄関の戸が開いて、誰かが来たことがわかった。

「あ、木島、じゃなくて、今は、柳沢先生か。」

と、杉ちゃんがそれにすぐ気がつく。由紀子は、あの、男女の区別がつかない名前で、河童みたいな顔をした先生であることを思い出すのに、時間がかかった。

「ああどうぞ、入ってくれ。」

と、杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「お邪魔します。」

と、柳沢裕美先生は四畳半にやってきた。利用者の一人が、その顔を見て、思わず吹き出してしまう。それほど、変な顔というか、おかしな顔つきなのであった。裕美というのは、男でも女でもよくある名前だが、とてもそういう名前には見えないほど、変な顔であった。ちょうど、水穂さんが、咳き込んで内容物を吐き出したのとほぼ同時に、柳沢先生が来てくれたのが良かった。柳沢先生に背中を叩いてもらって、水穂さんはやっと楽になってくれたようである。

「いいタイミングで入ってきてくださってありがとうございました。僕達、水穂さんにご飯を食べさせたくて、一生懸命やってるんですが、どうしても、食べてもらえないんですよ。」

杉ちゃんが、ちょっと嫌気がさしたような感じで言った。

「食べてもらえないって、何をですか?」

柳沢先生に聞かれて、杉ちゃんは、これですと言って、完璧に冷めてしまった七草粥の皿を顎で示した。

「腹が減らないんですかね。人間生きていれば、腹が減って何か食べたくなるもんだと思うんだけどな。全く、なんでご飯を食べないのか、僕達も、頭に来ることがあります。」

杉ちゃんの言い方は、なんでもそのとおりに言ってしまうので、由紀子はちょっと嫌だなあと思う時があった。頭にくるという言い方は、ちょっと、まずいのではないかと由紀子は思うのである。

「まあ、頭にきてもしょうがないとは思うんですけどね。でも、こうやって、何も食べない日が、毎日続いてしまうと、もういい加減にしろ!と怒鳴りたくなってしまうのは、僕だけでしょうか?」

「そうですねえ。人間ですから、完璧ではないわけですし、怒ってしまうこともあると思いますよ。」

杉ちゃんに柳沢先生は言った。水穂さんが、やっと楽になって、ウトウト眠っているのが、なんだか、由紀子は悲しい気持ちになった。

「もう、僕らはどうしたら良いんですかね。僕達は、AIじゃありませんよ。だからいつでもどこでもおんなじことができるのか、という事はないですよ。もうこういうときは、怒りたくもなります。全く、どうしたら良いのやら。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですか。それほど、食事をしないんですか。それは確かに、介護する方も困るでしょう。また食べない状態が続いていたら、連絡をください。」

柳沢先生は、そういうのであるが、実際問題、医者が来たからと言って、何になるんだと由紀子は思った。でも、それは心強いことでもあった。

「ああ頼みますよ。せっかく、七草粥つくったのに、これでは、何も意味がありません。それに、このまま食べない状態が続いたら、大変なことになりかねないですよね。僕達は、それはしたくありませんので。」

と、杉ちゃんが言うと、柳沢先生は、わかりましたといった。由紀子は、複雑な気持ちを、こらえながら、それを聞いていた。

「それじゃあ、よろしく頼むぜ。水穂さんに、なんとかしてご飯を食べてもらわなきゃ、僕達も非常に困るからなあ。」

と、杉ちゃんが言うと、柳沢先生は手帳を開いて何か確認していたが、すぐにそれをしまって、

「はい、わかりました。」

と言った。

由紀子の会社である岳南鉄道は、週に二回は休みをもらえる様になっていた。土日休みとは限らないが、週に5日勤務したら、2日休む事になっている。それは、会社で決まっている。もう一日働きたいと言ったって、休まないといけない。まあ、最近、そうしたいツワモノはなかなかいないけれど、由紀子は、この制度が良いと思った。そうすれば、週に2日は、水穂さんのところに行けるのだ。土日がそれに当たるとは限らないが、休みの日には、必ず製鉄所に直行するようにしていた。水穂さんが、眠ってしまってもいいから、ずっと彼のそばにいたい。由紀子はその思いで、製鉄所に行くのだった。

その日も、仕事が休みだったので、由紀子は急いで製鉄所に行った。引き戸を開けて、何をしているのか、想像しながら四畳半に行くと、水穂さんは、杉ちゃんに、おかゆを食べさせてもらっていた。その隣には、河童みたいな顔をした、柳沢先生が、監視員さんみたいに、正座で座っていた。

「ああ、由紀子さん。ご覧の通り、ご飯を食べてくれるようになったぜ。もう食べないでいられたら困るからなあ。今度は、朝昼晩と三食しっかり食べることを、目標にしようって、今、河太郎先生が言ってた。」

由紀子が来訪したのに、気がついた杉ちゃんは、そういうのであるが、杉ちゃんならではの明るさだと思った。こういう時、というか、いつでもどこでも明るい顔をしているのが、杉ちゃんである。

「そうなのね。」

由紀子はそれだけ言った。

「よし、もう一口食べろ。せめて、完食してもらわないと。」

と、杉ちゃんがお匙を口元へ持っていくと、水穂さんは、中身を食べてくれた。よし、良かったと杉ちゃんは喜ぶが、水穂さんはまた咳き込んでしまうのだ。でも、今までと違うところは、柳沢先生が、水穂さんの背中を擦ったり叩いたりしてくれるところである。これのおかげで、水穂さんは、中身を出すのもやりやすくなってくれるのであるが、その顔があまり嬉しそうでないことに由紀子は気がついた。水穂さん、楽にしてくれるんだったら、そのまま甘えちゃえばいいのに、と由紀子は思ったのだが、水穂さんは、申し訳無さそうな顔をするだけであった。柳沢先生が、水穂さんに薬を飲ませて落ち着かせている間、杉ちゃんは、空っぽになった茶碗を見つめてこういうのであった。

「ほんと、河太郎先生が、毎日来てくれて嬉しいなあ。おかげで茶碗一杯だけだけど、完食してくれるようになったんだから。」

その言葉を聞いて、由紀子は思わず、

「毎日?」

と聞いた。

「うん、毎日きてるよ。いつも、この時間は、だいたい一緒にいてくれるんだ。もし、吐きそうになっても、河太郎先生が、楽にしてくれるからさ、水穂さんも気分が良いんじゃないの?」

と、杉ちゃんは答えた。

「そうなんですか?それは、杉ちゃんが呼び出すの?」

と、由紀子が聞くと、

「いやあ、呼び出したことはないけど、いつも来てくれるからさ。僕らはすごく感謝してるよ。」

と、杉ちゃんは答えた。由紀子はそれを聞いて、そんな頻繁に来てくれるのであれば、申し訳ないというよりも、もしかしたら、水穂さんに何か仕掛けているのではないかと思ってしまった。なんでこんな気持が湧いてくるのだろう。もしかしたら、河太郎先生、水穂さんが、同和地区と言われるところの人であることを知っているだろうか、と思った。それではもしかしたら、同和地区の人を救ったということで、名声を回復しようとか、そんな事を企んでいるのではないかと思ってしまうのだ。普通の人なら、そういう事は、思わないはずである。医者が来てくれて、世話をしてくれれば、自分たちは、その分世話をする手間もなくなるから、それで良いのだにとどまってしまうと思う。でも、由紀子は、そういう事は思えないのだった。水穂さんの事を、好きだから、そういうふうに、善意で何かしてくれる人にまで、疑いを持ってしまう様になってしまったのだった。

「由紀子さん一体どうしたの?怖い顔しちゃって。」

杉ちゃんに言われて、由紀子は答えに困ってしまった。本当の事を言ったら、杉ちゃんを始めとして、まわりの人たちはえらく怒るだろう。せっかく先生が来てくれて、世話をしてくれているのだから、それに感謝すればいいじゃないか、疑いを持ったって、なんの意味もないよ、なんて言われるのではないか、と、由紀子は思ってしまった。なんでそんな事思われるのだろう。それはきっと水穂さんが好きだから。それで、答えは決まっているのだった。

「ご、ごめんなさい。私。」

と、由紀子は言い訳を考えるが、何も思い浮かばなかった。愛しているからという理由以外に、考えられなかったのである。

「ごめんなさいじゃなくて、僕の質問に答えてくれよ。由紀子さん、なんでそんなに怖い顔してるの?」

と、杉ちゃんに言われて、由紀子は、返答に困ってしまった。杉ちゃんという人には、猿芝居も何も効かないのだ。杉ちゃんには答えを言わなければ、何回も質問されてしまう。それが、吉と出るか凶と出るかは不詳だが、杉ちゃんという人は、そういう人であった。

「怖い顔なんて、あたしは、いつでもこんな顔よ。」

と、由紀子はいうが、

「違うだろ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そういうことじゃないよな。由紀子さんって、そんなにいつも怒ったような顔をしているわけじゃないし、悲しそうな顔をしているわけでもないよねえ。」

「そんな事ないわよ。」

由紀子は誤魔化そうとしたが、杉ちゃんには効かなかった。

「そうなんだねえ。じゃあ、僕が当ててやる。由紀子さんは、もしかして、河太郎先生が、毎日来てくれているのが不思議でしょうがない。違うか?」

由紀子は、杉ちゃんに言われて、返事ができなかった。

「はあ、図星かあ、それでは、河太郎先生に聞いてみようか。僕もさ、なんで、毎日来てくれているのか、なんか不思議でしょうがないんだ。水穂さんが、毎日来てくれても、何も喜ばないのにさ。そこらへんも、知っているのかな。それでも、こうして熱心に来てくれるのは、なんかわけがあるんだと思うんだよね。」

杉ちゃんの言葉は、自分の気持ちを代弁しているようだった。確かに、水穂さんは、柳沢先生に来てもらって、世話をしてもらっていても、何も嬉しそうではなかった。それどころか、申し訳ない顔をしているのだ。なんだかそれが、いけない事をしてもらっているように、由紀子には見えるのだった。

「それでは、お前さんがなんで、こっちへ毎日毎日来てくれるのか、教えてもらおうか。なんで、そんなに熱心に、水穂さんのこと、見てくれるんだよ?」

と、杉ちゃんが聞くと、柳沢先生は、

「はい、答えは一つですよ。若い頃、ミャンマーへ派遣されて、道路に倒れていたロヒンギャの人を、見殺しにしてしまったので、水穂さんのような人を治療することによって、その償いをしようとしているだけですよ。」

と答えるのみであった。

「ほんとにそれだけ?」

と、杉ちゃんは、疑い深そうに言った。

「まあ確かに、今でも人種差別がひどい国家は、そこいらにあるけど、なんかそれだけじゃないような気がするんだよな。なんかもっといろんなわけがあるんだと思うんだよね。なんでそんなに、水穂さんの事を、熱心に見てくれてるの?もし、可能であれば、教えてくれないかな?」

と、杉ちゃんは、そう続けた。柳沢先生も、

「いえいえ、同和問題と、ミャンマーのロヒンギャ問題は、おんなじようなところがあるんだろうなと思っただけですよ。」

と、答えるのであった。

「おんなじところねえ。まあ、どっちも、人種差別の被害者であることに変わりはないけど、僕は、なんか違うような気がするんだよね。単に、放置しちゃっただけではない気がするんだよ。なんか別の訳があるんだろう。そうしなければ、水穂さんの事を、こんなに熱心に見てくれるはずがないでしょ。」

と、杉ちゃんが言った。確かに、水穂さんが同和地区の人である、という事実を知ると、水穂さんを熱心に見てくれる医者は一人もいなくなった。本人はそれで正常な判断だと言っていたが、そういう事も、人種差別だと思う。

「じゃあ、質問を変えるよ。普通の医者なら、大いに断っちまうことを積極的にやろうとしてくれるのは、何か理由があることだろうな。それでは、こう聞いてみようぜ。きみを撃ち抜く言葉は何?」

杉ちゃんは、いきなりそんな質問をした。こんなこと、聞いて良いのかと由紀子は思ったが、自分も、聞いてみたい言葉だった。水穂さんの事を、こんなに熱心に見てくれる、という医者は、他に例がないし、逆に怖くなってしまうこともあるからだ。杉ちゃんみたいに、ストレートに口に出して言えたら、どんなに楽だろうと思ったことも多い。

「はい、お答えしますよ。」

と、柳沢先生が、言った。

「ロヒンギャに言われた、余計な事をするな、です。見殺しにした男性の家族にそう怒鳴られました。多分きっと、別の部族というか別の種族に見てもらうというのは、彼らにとっては、余計なことだったんじゃないかな。」

「余計なことをするな、ねえ。」

杉ちゃんはそれをオウム返しに繰り返した。

「なんで余計な事をするな、で、そんなに感動したんだよ。」

「いや、それが当たり前であることに、僕は、それではいけないと思ったんです。もしかしたら若気の至りだったかもしれないんですが、余計なことをするなと言われて、そうしなければならない環境に住んでいる人が、世界にはたくさんいるんだなと知ったんですよ。僕はね、誰でも医療を受けられれば喜ぶと思っていたんですけど、そうじゃない人も居るんですね。そういう人が、余計な事をするなと言わなくても良いような、そんな世の中になってくれたら良いなと思わずにはいられませんでしたよ。」

「はああ、なるほどねえ。」

杉ちゃんは、腕組みをした。確かに、ミャンマーをはじめ、海外の貧しい国家では、医者という人物はまださほど権威がないと思われていることは多いものだ。医者に見せようとしても、この部族の人は嫌だ、と言われて追い出されるのが当たり前、という部族だってあるだろう。医療というものが、まだ、あまり役に立たない国家は、意外にあるのかもしれない。

「まあ確かに、そういう事言われると、傷つくというか、なんかのきっかけにはなるんだろうな。」

杉ちゃんは一人納得したようであったが、由紀子は、まだきっと他にも訳があるんだろうなと思った。それが積み重なって、今ここに来てくれているのだろう。小さなことが、積み重なって、人間はできているものだから。

でも、そのすべての事を聞いてしまうのは、由紀子はやめようと思った。余計なことをするな、と言われただけでも、随分インパクトはあっただろうし。そういう事を経験して、他の人の幸せのために奉仕しようと考えた、柳沢先生が、本当に河太郎に見えてしまった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

七草粥 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ