少女たちの文化

夏坂

第1話

 相変わらず、木曜日の教育学部二号棟二〇二号室には、二階堂教授と俺の二人だけであった。もう一人のゼミ生である片山麗華の姿はない。


「二階堂先生、片山さんの単位はどうなっているんですか?」

「ん? ああ、一応あげるつもりではいるんだけどね。前期の最初の方は少し来ていたし。でも、後期もこの調子が続くようじゃあ、簡単にはあげられないよねぇ…」


 定年まであと二年と迫った二階堂教授は、禿げあがった頭を掻きながら答えた。教授一人と学生一人には、あまりに教室は広く、さほど大きくない声が面倒なくらい反響した。


「そういえばさ、神山くんは夏休み、実家に帰るの?」

「少しばかりは帰りますけど、長くはいないと思います。ほとんどこっちにいるつもりです」

「ふーん、じゃあ夏休みは暇なんだね?」

「暇と言えば、暇ですが…何かありましたっけ? 合宿もないんですよねこのゼミ」


 合宿や面倒な行事等がなさそうだからこのゼミを選んだのだ。二階堂教授は含みを持たせた頷きを幾度か繰り返している。何を企んでいるのだろうか。まさか、今更合宿をするなどと言いだすつもりなのか。そもそも三年生も合わせて五人しかいないゼミに合宿など必要か?


「実はね、自治体との協同プロジェクトで上がっている話があってね。市内の中学三年生で高校受験を控えているけれど塾に行くお金のない子を募って、うちの学生を教師役として派遣するっていう趣旨なんだけどね」

「はあ」

「それで、うちのゼミにその白羽の矢が立ったんだよね。ほら、夏休みに活動がないのってうちのゼミくらいじゃない」

「それって、三年生がやるんじゃあないんですか?」

「いや、三年生は忙しいじゃない。インターンとか行く人もいるしさ、うちのゼミ。後期に教育実習がある人もいるから、三年生にお願いするのはちょっとね…」

「それで、僕に?」

「そう」


 すでに決定事項であるかのような口ぶりで二階堂教授は言った。教授から提案されたことを突き返せるほど学生は立場のある人間ではない。しかしこれは、面倒なことになった。


「っと、夏休みっていうと八月、ですよね」

「そう、八月一日から。週三から四回を予定しているようだね」

「週三⁉ 多くないですか」

「もちろん、タダでとは言わない。後期のゼミは全て出席した扱いで、単位も保障しよう。最高評価でね」


 貴重な夏休みに、無償労働を十数回…。馬鹿じゃないのかと言いたいところであるが、学生に反論する権利は与えられていない。


「片山さんも?」

「勿論。君たち二人が教師だ」


 未だ二度しか見ていない片山麗華の顔を思い出す。髪は明るい金色に染め上げ、大きいピアスを付けた彼女の姿は、おおよそ人の規範たる教師のそれではなかった。

 二階堂教授はおもむろに何かが印刷された紙を取り出した。そこに書かれていたのはプロジェクトの概略であった。生徒数およそ十~二十人、期間:八月中、場所:浦和国立大学教育学部付属中学校。高校受験に向けて塾に通いたいが、家計的に厳しい生徒が対象。


「えっと、実際に教員が補助についてくれるとかはないんですか?」

「ないよ。学生が自分で考えて取り組むこともこのプロジェクトの要旨だからね。全部、君たちの裁量に任せるよ。教育指導法の授業、もうとったでしょ? なら大丈夫」


 何が大丈夫なのか全くわからないが、既に決定事項のようであった。二階堂教授は一仕事終えたという風に満足げな表情をしていた。

 やがて、家庭での子と親の会話の量が学校での学習態度の良さに比例するといったデータを見せられ、それに関する考察を適当に書き、議論という名の教授からの一歩的な講釈を受け、授業は終わった。


 学部棟から外に出ると、如何にも梅雨らしくしとしとと雨が降っていた。傘を忘れたことを心底後悔しながら、特に走るでもなく、家路へとついた。

 家庭環境に恵まれず、塾に行けない子どもたち。ワケありな気がしなくもないが、まあ何とかなるだろう。そう思って煙草に火を付けた。

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少女たちの文化 夏坂 @Umur

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