十六 あなたが望むなら
昼に起きる。
あと一週間ほどで冬休みも終わるといった具合である。
離れで着替えて、着替えを母屋の洗濯機に突っ込む。
あの人のところに通うようになってから睡眠時間は少しづつ短くなる。
部屋に帰っても彼女のことが浮かぶのだが、その時間が徐々に伸びているように感じていた。
私自身の問題であり責任なので彼女に何を言うでもないのだが、少々眠い。
学校が始まれば会える日や時間というのは少なく・短くなるだろう。
それが仕方の無いこととはいえ、心の隅の方では寂しく思ってしまう。
深みにはまるとはこういうことを言うのだろう。
「……」
私はどうするべきなのだろうか。
どうにも出来ない、というのが答えなのだろうがそう思わずにはいられなかった。
彼女の話を聞く限りは、彼女は被害者だと私は考えているからだ。
確かにその土地に踏み込んだのは彼女ではあるが、彼女の身に降りかかる問題はあまりにも大きすぎるのではないだろうか。
なにか力になれることは無いのだろうか。
「おはよう」
「……兄さん」
私の背に声をかけたのは兄である。
短く切った髪とたくましい体つき、私と兄弟だとは思えない。
両親自慢の長男だ。
「いま起きたのか?」
「いや……起きてたけど離れから出たのが今」
嘘だ。
兄や姉を前にすると私はどうにも自分が小さな存在になった気がしてならない。
二人に対して恨みはないが、劣等感というものはある。
いまこの場で私の生活をありのまま話せば、兄が心のどこかで私のことを軽蔑するのではないかと思ってしまう。
兄も姉も父も母も、私からすればどこか
ハツラツとして、あの旅館を担うものとして誇りを持っている。
私はその心を理解出来なかったし、彼らと比較して私があまりにも至らない存在だと感じていた。
「お客様来てるぞ」
「お客様……? 店の?」
「そう。あの葵の間の。なんかお前に個人的に世話になったから礼がしたいって。父さんも母さんもまだ帰ってないから俺が応対した」
「……ありがとう。お客様は居間?」
「あぁ。俺も用事って出るから、なんかあったらよろしくな」
葵の間というのは彼女の泊まっている部屋である。
となると、彼女が尋ねてきたらしい。
どういった用向きなのか。
一切が不明であるものの、私は一人居間に向かった。
居間の戸を開けると当然だが彼女がいて、なにやら紙袋を傍において座っていた。
足を崩さず、少し伏し目がちにしている姿は普段とは違う雰囲気がある。
一瞬、私は彼女が彼女ではなくなってしまったかのような気がしてしまった。
じわりと浮かんだ汗が冷たく背を伝う。
「若旦那」
気付けば彼女が私の方を向いて笑っていた。
三日月のような弧を描いた口元と、どこまでも黒い色の瞳がこちらを向いている。
「なぁに? 家人立たせてうちが座っとったら恐縮するやないの」
「あ、えぇ。はい……すみません」
私も座る。
机を挟んで彼女と向き合って座るといつかの居酒屋を思い出した。
あの頃から、私と彼女の関係は変わったのだろうか。
私は知らないことを知ったが、彼女はこれまでと変わらないのだろうか。
少し、そんなことを考えてしまう。
「あの
「……そう、ですか」
「……なんぞ言われた?」
「はい」
あの夜、私が彼に言われたことを話す。
彼女は変わらず私の話を静かに聞いていた。
「さよか」
彼女の答えはそれだけだった。
あまりにもあっさりとしていて、いっそ突き放しているようにすら思えた。
「あの、それで」
「んー?」
「……なにか、力になれませんか?」
「ええよ。別に」
「いい事ありません」
私は身を乗り出した。
それを見て彼女はずい、と顔を寄せた。
私たちの額が触れそうな距離だ。
思わず身を引こうとすると彼女の指先が服の襟に引っ掛けられ、動きを止められる。
指一本でここまでとは思わなんだ。
「お姉さんには恩があります」
「なにそれ」
「あ、あの日の食事とか……」
「若旦那ほとんど食うてへんかったやろ」
「そ、それでも一宿一飯の恩が……」
「うちは若旦那の旅館に何宿何飯の恩義や? もうチャラやよ」
何を言ってそんな具合に返されてしまう。
らしくない雰囲気である。
「ああ言えばこう言いますね……」
「ああ言うからこう言うんよ」
静かにしていればいいということなのだろうか。
やはり、遠回しに何もするなと言われているようだ。
しかしだからといってあきらめることができるだろか。
私はまだ、彼女にいて欲しいと思っている。
「……お姉さん、責任があるって言いました」
「ん?」
「責任があるからもう少し付き合ってもらうと僕に言いましたよね」
「言うたな」
「なら、僕も付き合わせてください。後悔しません、きっと」
彼女が息を吐く。
ぐり、と私たちの額がかち合った。
額から伝わる熱が、頬にいって全身をめぐる。
「うちがどないなことしようと思うてるか、分からんのにそないにいうてええの?」
「……はい」
「そ」
彼女の赤い舌が口からのぞく。
舌なめずりをするかのようなその動きはどこか艶めかしく、私の鼓動が一段と早くなる。
彼女が言葉を吐くまでの間が永遠のように長く感じる。
お互いの呼吸が、お互いの肌が触れていた。
「誘拐し《さろう》てまおか」
「え」
「若旦那、あんたを連れてどこへと行ってしまおかな」
言葉に迷ってしまった。
彼女の言ったことの真意を掴めずにいたからだ。
なのに、その答えは脳を通さずに口をつく。
「……お姉さんが、望むなら」
それは私の意志だったのだろうか。
確かに、私にとって私の家族は私自身を小さなものだと定義させる存在だ。
しかしだからといって深く考えもせずに了承する質問でもなかった。
血は水よりも濃い。
その言葉を私は嘘にした、血の繋がりよりも目の前の彼女との繋がりを優先したのだろうか。
自分自身の選択が信じられない。
私はそこまで彼女に魅入られているのか。
魅の文字の中にあるもの。
彼女のいう鬼とは、まさか。
そういうものなのだろうか。
「若旦那……あかんよ。その顔、ほかの人に見したら」
熱に浮かされたような気持ちが私を頷かせる。
「……ちょっと、歩こか」
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