十三 口伝・消失
「あの、話の腰を折るようで恐縮ですが」
「ん? なんや?」
「お姉さんはその提案を飲んだから鬼になったっていうことですか?」
「そう。色々、取引っちゅうんもあったんやけど」
少し、間があって。
「……何を失って、何を得たんですか」
「そら、お金を得たんや。正しくは『お金を無限に得る手段』やけどな」
それがあの鬼なのか。
あれはまったく公平や公正ではないように思えた。
彼女自身の身を危険にさらしていることに他ならないだろう。
「ふふふ……若旦那。難しい顔になっとるで」
私の眉間を彼女の指の腹が撫でる。
ぐりぐりと揉まれると、なんとなくその緊張も緩んだように思えた。
「まぁ、あとちょっとだけ付き合ってや。おもろない話やけど」
金、それが彼女の選択だった。
あらゆるものを失え、とはあまりにも大ざっぱな言い分であるが、人ではないものの感覚とはそういうものなのかもしれない。
結局のところ、私たちの思考など及ばない存在なのだから。
『いま、鬼門は開かれた』
そんな幽鬼の言葉と共に、彼女の意識は解き放たれた。
彼女たち二人は夜明けの山道にいて、まるで狐か狸に騙されたようであったという。
助かったのかそれともあれは夢だったのかと考えつつ、彼女は友人に声をかけた。
かけた、のだが。
『……誰ですか』
彼女はまず、友人を失った。
「……」
「その時点であった人間の繋がりみたいなもんは全部なくなったわな」
事もなげにそう私に告げた。
実家に帰っても親は自身の存在を認知していなかった。
「友達の次は居場所がなくなったわ。なけなしの金で泊まれる場所探して」
それから、彼女は多くのものを失う。
各種証明書の原因不明の失効。
そして、戸籍の抹消。
彼女はいま、社会的に存在しなくなっているのだという。
「その代わり得たもんがお金」
「でもあれはお金を得ているといえるのですか」
「いやまぁ、言えるやろ。襲われはするけど」
「襲われたら……!」
「ちゃう。あれは通告や。うちがほんまに人生が嫌んなったら、鬼に殺されてまえと言うてるんやと、うちは思うとる」
「……あれは、そんな親切なものではないでしょう」
「ん。うちもそう思うわ。でも、そう思わんとしゃあない。うちかて、あないな棒振り回したないわ」
箸より重いものは持てないから、と言って笑う。
その笑顔は寂しそうなものであった。
私は自分の無力というものを悔いた。
彼女を慰める言葉も、励ます言葉も、どうにかする力も、私は持っていないのだ。
「……そういえば、鬼になるっていうことは存在を失うことなんですか?」
「んーちょっとちゃうかな。うちも昔誰やったかに言われてそういうもんかと思うたんやけど」
そのあとはまた今度にでもしよう、そう言って彼女は話を打ち切った。
時計を見れば、もうじき離れに戻る時間である。
私が思うよりも長く、この話を聞いていたようだ。
「そろそろ帰らんとな。明日も休みやろけど、しんどいやろ」
「……まだ」
「んー?」
「まだここにいたいです」
「……ほな、好きにし」
ごろり、と彼女が布団の中に潜り込む。
「なっ……」
「なぁに?」
「なんで寝ようとするんですか」
「寝転がりたかったんよ」
ならかけ布団をかぶらないでいただきたい。
明らかに寝ようとしているようにしか見えない。
寝転がるだけなら畳にしてほしい。
「なんよ、若旦那も寝たらええやんか」
それもそうか、と思って布団の横に寝転んでみる。
まるで畳の匂いが鼻をくすぐって、なんだか疲れが抜けていくような気がした。
少し息を吐き、訪れる柔らかな眠りに誘われそうになると服を引かれた。
布団から伸びる手、白い肌。
「おいで」
畳の上を私の体が滑っていく。
あっという間に私の体は布団に飲み込まれてしまう。
「ふふ。緊張せんでええがな。別に取って食うわけやないし」
前に指を食べられそうになった気がするのだが気のせいなのだろうか。
そんな抗議の言葉すら、喉で止まって胃に落ちる。
結局のところ、私がこうなることを望んでいるのだろうか。
一つの布団に二人の肉体。
目の前に確かに彼女はいるのに、この社会で彼女を認めるものがないというのが信じられない。
呼吸と、熱と、匂いと、肉体と、精神と、魂すらあるというのに。
彼女はこの世にはいないものらしい。
それはどれだけ寄る辺のないことなのだろうか。
あんな風に笑っている裏で、どれだけの苦痛を負ったのだろうか。
失ったものの多さは分からない。
彼女が得た金銭の多さに比例しているとは思えない。
「若旦那」
「なんでしょう」
「そないに硬ならんでええよ」
「……」
「どうせ、あんたの人生に少しの間だけおるだけのよそもんや。ちょっと珍しい動物くらいに思うてかまんよ」
「……らしくないですね」
そうかな、と彼女がくすくすと笑う。
笑っていてほしいのだが、そんな笑い方をしてほしいわけではない。
自嘲気味なその顔がなんだかとても悲しかった。
「僕は……お姉さんのこと、覚えてますよ」
「無理やよ」
「やってみないとわかりません」
「そら、試した人はおらんけどやな」
「……なら、僕がそれを証明しますよ」
「ふうん。言うやんか」
嗚呼、やっと。
やっと、楽しそうに笑ってくれた。
そんな気持ちを抱いて、私はまどろみの中に落ちていった。
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