八 唇
「言うたのになぁ、若旦那」
薄暗い部屋の中、天井と彼女の顔が視界内。
私は床に体を預けて仰向けに転がっている状態である。
変わらず彼女は笑っているのに、私の心の中には今までとは違う感情の色がにじんでいるのが分かる。
そうして、私のそんな変化すら彼女は見透かしているのだろう。
「鬼に
腹の上が重い。
彼女が私の上に乗っているらしく、彼女が何か話すたびに胃の中のものを押し出されそうになる。
昔、カエルが自身の胃を吐き出すのを見たことがある。
私もちょうどそんな具合に胃の腑が裏返ってしまいそうだ。
身じろぎするもののまったく彼女が動く様子がない。
「若旦那」
蛇ににらまれたカエルだ。
その声を聴くだけで、その目で見られるだけで、私は動けなくなってしまうのだから。
魔性とはこういうものをいうのだろうか。
そうなのだったら納得である。
彼女は鬼なのだから、そういった類のものを持っていても何ら不思議ではないからだ。
この期におよんでそんなことを考えるのは楽観的だろうか。
それとも、なにか大切なものを投げ捨ててしまっているのだろうか。
「もう、ええかな」
そういって、私の頬に触れる。
ぬくもりというのが無い手だった。
彼女の血が冷たくなっているのだろうか、それとも私の肌が石になっているのか。
どちらでもいい。
もう、どうだっていいんだそんなことは。
思考の熱も、肉体の熱も、情も何もかもが霧散して部屋の隅の薄暗い闇と同化して消えてしまえばいいのだ。
「後悔してはる?」
三日月の形をした瞳が私を見下ろしている。
その答えは分からない。
だけれど、すぐにうなずこうという気持ちは起きてこなかった。
つまりは拒絶したいと強くは思っていないのだろう。
いや、いいのだ。
彼女を責めることなどできないはずだ。
すべては私が選んだ道だ。
「僕は、貴方と一緒にいたいと思っていましたから」
これは肯定の言葉なのだろうか、それとも否定か。
彼女がどう受け取ったのかは分からない。
確かなことは彼女の濡れた唇が私に迫ってきたということだ。
ぐち、と湿ったような音がした。
彼女の体が下りてきて、その口が私の喉に墜落してくる。
手が私の方や腕を押さえつけ、私の体が跳ねるのを無理やりに止めていた。
彼女の歯が私の中で動くたびに身が大きく震えるのだ。
「若旦那」
緊張と脱力の繰り返し。
赤い舌が傷口をなめて、唇が血をすする。
吐息交じりの言葉が私の鼓膜から脳を侵蝕していくのが分かる。
私の上の鬼が私の肉体を支配し、征服していく。
私が私でなくなろうとしている。
それでもなお、私はその事実を受け入れていた。
嗚呼、やはりそうなのだ。
私は後悔など心根の奥にすら生んでいないのである。
こんなにも彼女に魅入られてしまっているのだから。
「若旦那」
「……あれ」
気づけば、私の上から彼女が消えていた。
それどころか、温かな風が私の体を撫でている。
「いや、ようやっと起きはったわ。やっぱり疲れとったんやんか」
時計を見る。
時刻は五時を少し過ぎたあたりで、日が昇り始めているらしく空が白みだしていた。
「あの……」
「さぁ、どこから夢やったと思う?」
眠い目をこすりつつ、今の状況を把握するに至った。
眠っていたらしい。
そしてどうやら私は彼女の膝を枕にしているようである。
平時ならばそれが気恥ずかしく即座に身を離しただろうが、まどろむ私の頭はそこまでの行動を起こせずにいた。
「貴方は鬼でした」
「そうやよ。そう言うたやろ、嘘やと思っとったん? 嫌やわぁ」
「僕は気絶していましたか」
少し間が空いて、なにか諦めたような色で彼女が息を吐く。
「そうやよ」
やはり、あの赤鬼のことは夢ではなかったらしい。
そうかそうかと体を起こしつつ腕を組む。
一応、膝を借りたことについて頭を下げた。
「驚きました」
「まぁ、そらせやわな」
「後悔はしていません」
「……さよか」
「先ほど、夢の中で聞かれました」
「夢のなかのうちに返した言葉をうちにも返すん?」
呆れたようなような声色に私は首をひねった。
なにか間違っただろうか。
「目の前のうち以外のうちと口きかんといてくれやす」
「……はい」
「いま、意味わからん思うたやろ」
「……正直思いました」
ぐに、と鼻をつままれる。
息が苦しい。
「ここにおるうち以外のうちはうちやないよ。うち以外うちやないし」
「は、はい……」
「若旦那。自分の目ぇで見て、肌で感じるもん以外は信じんとき」
夢で見た彼女は自分の目でみたものではないのだろうかとか、そういうことを言いそうになって口を閉じる。
恥はかかぬほうがいい、沈黙は金という言葉もある。
彼女に幻滅されたくはないものだ、もう手遅れかもしれないが。
「……で、どないするつもり?」
「どう、と言われても……」
「これからまたあないな目ぇに合うかもしれへんけど、どないするか。また巻き込むんは、うちはあんまり気ぃ進まんけど」
「……」
どうするべきか、と言われも困ってしまう。
行った先に何があるかも、戻った先に何があるかも分からない。
「貴方と一緒にいたいです」
「……それ、答えになってへんとうちは思うけど」
そう言いつつも、彼女は私の頬に手を触れた。
温かな血のぬくもりというものがある。
「うちにも責任はあるし、もうちょっとだけ付き合ってもらおか」
若旦那、と私に笑いかける。
それを見て、私の頬もほころんでしまうのだった。
「……そうや。若旦那。うちのお名前教えたげよ」
「いえ、お客様の名簿は見てますから……」
「あれな。嘘やよ。身分証見せてへんやろ」
「はい?」
「ふふふ。その辺りの事情も追々、な?」
唇を耳元に寄せて、ささやかれる。
そしてそのあとに頬に柔らかな感触。
それが彼女の唇だと気付くのに、数秒。
「あ」
私が赤くなるのが一秒。
「これからもあんじょうよろしゅう」
彼女が笑うのは同時であった。
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