七 鬼退治

 ひっ、と喉の奥で音が鳴る。

 それが自分の息によるものだと気づいたのはそれからしばらくしてからで。

 端的に言って混乱していた。

「逃げよか」

 気付けば彼女の顔が私の顔の傍に来ていた。

 耳元で彼女の声が聞こえる。

 それなのに私の視線は目の前の赤鬼に注がれていた。

 赤鬼、赤い体で角が二本。

 絵本で見たような存在が確かに私の目の前にいるのだ。

「立って」

 長椅子に置いた食べ物も寒さも忘れて、反射的に立ち上がる。

「ほらほら、鬼さんこちら」

 彼女に手を引かれて走り出す。

 あれだけ賑やかだった新年の雰囲気も屋台の明かりも消えてしまっている。

 物だけを残して全てが消えてしまったように。

「せ、説明を! 説明をしてくださ……っ!」

「舌噛むで」

 楽しそうにけらけら笑っている。

 彼女は明確に私と違う存在だとよくわかった。

「若旦那、後悔した?」

「なっ……」

「した?」

「してません」

 彼女の手を強く握り返す。

 汗ばむせいで滑ってしまいそうだがそれでもこの手を離すまいと必死だ。

 赤鬼がいるからでは無い。

 彼女がいるからだ。

「若旦那、あれは着いてきとる?」

「え、あ……い、いません」

 走りながら後ろを振り向くが一面夜の闇ばかりだ。

 流石に石階段を降りるとなると足の速度は落ちていく。

「いや、難儀やな」

 彼女の足が急に止まって前につんのめった。

 石階段の下に落ちそうになる私の体を彼女が反転して受け止めた。

 柔らかな肉体の感触とふわりと香る甘い匂い。

 その事実に私は紅潮し、直後に現実を見て硬直する。

 石階段の下、踊り場にあたる場所に赤鬼がいた。

 後ろにいなかったのではなく、前にいたのだ。

 どこまでも黒い鬼の瞳がらんらんと輝き、こちらを見ている。

 嗚呼、と理解した。

 あの黒は彼女の瞳と同じ黒だ。

 光の届かないほどの暗い闇のいろなのだ。

「若旦那。待っといて」

「待って……」

「うちも鬼の前に大人やさかいな。始末は付けるわ。こうなることも予測しとったんやから」

 私が手すりを掴んだことを確認して、彼女は離れていく。

 竹刀袋をこん、と階段にぶつけると口を開けられた袋の中からなにやら金属製のものらしい棒が顔を出した。

 六角形の形をした、握りやすそうな太さのものである。

 それを手にするとくるくると新体操のように回し始めた。

 棒の長さは一メートルを少し超えているくらいだろうか。

「鬼に金棒やね」

 彼女の瞳にも、赤鬼と同じ色。

 らんらんと輝き始め、口元の笑みは普段とは違う雰囲気を放ち始める。

「若旦那」

 私を呼ぶ。

 いつものように笑みを浮かべながら。

 それなのに身にまとうものが全く違う。

 理解と納得というものは違うところで行う。

 言葉や行動によって頭で理解するのに対して、納得というものは精神で行うのだ。

 頭では分かっていても承知しかねることがあり、理論は分からないがそういうとものだと承知できることがある。

 私はその時、納得したのだ。

 彼女が鬼であるという事実に対して、納得した。

 今この心にあるのは彼女の言う後悔なのだろうか、それとも別のものだろうか。

「行ってくるな」

 待って欲しい。

 危険だとか、まだ逃げる手はあるかもしれとか、そんな言葉が頭に浮かぶ。

 それは胃の底から喉に上がって来て、息と共に消えていく。

 言いたいと言えないの板挟み。

 私は理解したし納得した。

 自分とは違う、彼女は鬼なのだ。

 何も言えやしないだろう。

「鬼退治やな」

 赤鬼は何も話さない。

 ただ、石段を降りる彼女を見て笑っている。

 鋭い牙は肉食動物のようだ。

 くるり、と彼女が棒を回す。

 赤鬼が踊り場から石段に足をかける。

 仕掛けたのは、ほぼ同時だった。

 ただし一手通したのは彼女の方だ。

 振り上げられた赤鬼の手首あたりを棒で打すえたらしい。

 弾かれるように赤鬼の腕が戻っていく。

 その動きの軌道をなぞるように、キラキラとなにかが舞っている。

 それが踊り場に落ちて、カチカチと音を鳴らす。

「……?」

 物が小さく、よく見えない。

 だが答えはすぐにわかった。

 棒が今度は反対に振るわれ、赤鬼のこめかみを叩く。

 その瞬間だった。

「金……」

 本来なら、血が吹き出したのだろう。

 その代わりに宙を舞っていたのは一万円札だった。

 札が何枚も舞い上がる。

 私たちに払っていた料金はきっと。

「……」

 クラクラとめまいがし始めた。

 受け止めきれない現実がぽろぽろとこぼれてしまっているようだ。

 私は彼女について、何も知らない。

 あの夜から少しは前に進んだと思っていたが、思い上がりもはなはだしい。

「は、はは……」

 私は、笑っていた。

 愉快だからではない、意味も分からずそうなっていた。

 彼女が夜の闇に踊っている。

 気付けば踊り場に倒れた赤鬼を一方的に打ち続けている。

 その光景にまためまいが強くなり、世界が回っているかのような錯覚が訪れた。

 もしもあの夜、私が進まなければこうはならなかったのだろうか。

 少なくともこの光景を見ることは無かったはずだ。

 彼女の言葉が耳の中で反響する。

『後悔するで、きっと』

 私がいま抱えているものは、後悔なのだろうか。

「……若旦那?」

 事が終わるよりも早く、私は意識を手放した。

 もしも次に目覚めることがあるなら、いま目の前にある全てが解決していることを願う。

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