三 捕食

「鬼?」

「そう、鬼」

 肩に手が触れる。

 引き寄せられて、体が触れ合う。

 相手の呼吸が分かって、恐らくこちらの呼吸を知られている。

「こわぁい、鬼」

 言い含めるように彼女は囁く。

 ぞわぞわと背中に何かが走った。

 鬼、鬼といったか。

 職業ではなく、在り方かあるいは精神性の話をしているのか。

「鬼、とは」

「言葉通り……まぁ、言うても分からんわな」

 ぐい、と今度は体を押し込まれた。

 世界が回る、私は気付けば床を背にして天井を向いている。

 見下ろす彼女、降りてきた彼女の髪が私の顔を覆う幕のようになり、視界が彼女で埋め尽くされた。

「がおぉ」

 にぃと笑う。

 赤い舌が口の端からのぞいた気がした。

 小さく開けられた口が私に向かって降りてこようとする。

 体を強く押さえつけられているわけでもないのに動けない。

 恐怖しているからではない、動転しているからではない、彼女を拒絶しているからではないはずだ。

「はっ……はっ……はっ……!」

 捕食。

 食物連鎖の頂点に人がいるというのは思い上がりである。

 それは熊や虎に負けるからでは無い。

 彼女のような超越者に我々はたやすく負けてしまうのだ、きっと。

「ま、待ってくださ……!」

「ふふ、はよう逃げんと。ほんまに食べてしまうでな」

 何とか腕を動かし、体を押し返そうとするもののどこに触れたらいいものかと手がさ迷う。

 なんとか肩の辺りを押してみるもののビクともしなかった。

 まるで肉体の中に鉄の芯を通したようだ。

 私の非力さ、という懸念材料はあるもののここまで相手に影響を与えないのはおかしな話である。

「ふふ、なぁにそれ」

 私の肩を押さえていた手が離れ、私の手を掴む。

 温度、人の体温の温もり。

 その手が揉むように私の手をもてあそんでいる。

 私はそれをただ見ていた、何も出来ずにいた。

「あ……」

 彼女の歯が私の指を噛んだ。

 痛くはない。

 代わりに甘い痺れのようなものが指先からゆるゆると広がってくる。

 指の股に唾液や舌が絡む感触が指も手も全てを溶かしていくようだった。

 抵抗したのだ、もういいのではないか。

 このまま、委ねてしまって。

 あの時ついて行った時から何かがおかしかったのだ。

 誘蛾灯に誘われるようにふらふらと飛んでしまったのが悪かった。

 思わず、目を閉じてしまう。

「あかんえ」

 微睡みのような感覚に落ちそうになって、彼女の声が引きあげる。

 気付けば私の指に這っているのはもうぬるくなったおしぼりになっていて、彼女の口の中にあったという事実すら消えていくようであった。

「悪かったな。どうにも、加減が効かんもんで」

 拭き終わったということなのか手が開放される。

 加減とは、なんの加減だったのだろう。

「それは貴方が鬼だからですか?」

「どうやろか」

「……あの」

「なぁに?」

 きっと、ここが分水嶺。

 どうしようもない程の気持ちを抱いてしまった私にとって、行くか戻るかの道の分岐点。

「鬼とはなんですか」

「……口にすんのははばかられるなぁ」

 きっと、そうなのだろう。

「なぁ」

「なんでしょう」

「これ以上は、あかんと言うとくで」

 きっと、そうなのだろう。

「構いません」

「……若旦那」

「……はい」

「後悔するで、きっと」

 私は、彼女に誘われる蛾であってもいいと思った。

 その感情の意味を私はまだ知らなかったが。

「若旦那。今からうちが言うことは、どないだけおかしいと思ってもうなずいてもらわんといかんよ」

「……わかりました」

 私はやっと体を起こして彼女と向かい合う。

 彼女のグラスはもう空になっていた。

「鬼門をな、開けたんよ」

「……はい」

「ん。ええ子。昔、心霊現象がどうのって噂になってるとこに行ってなぁ。そこで開けてもうたんよ」

 鬼門。

 凶の方角とされる場所。

「いろいろあって、祟られたっちゅんが簡単な結論でその結果としてうちは鬼になったんよ」

「……はい」

「ふふ。誰かに話すんは久しぶりやな」

「そうなんですか?」

「みんな、途中でうちから離れるから」

 それは話を聞いている途中に、という意味ではないのだろう。

 私にしたようなことをほかの人物に模したのかは定かではないが、煙に巻いたり時には強引な手段をとっていたのだと思われる。

 ……彼女に確認したわけではないが、そんな理由だろう。

「若旦那」

「なんでしょう」

「もっと遊ぼや。また明日、こんな風に話でもしよ」

 笑っている。

 なんとなく、いつもの笑みよりも目元が優しい気がした。

 彼女は私に自身のことを話して、楽になったのだろうか。

 鬼であるということの意味を私は一から十まで知ったわけではないが、少なくとも彼女はそれをずっと秘としてたわけで。

 それを話したことで彼女の中に何か変化が生じているのだろうか。

 無論、それを彼女に確かめることなどないが。

「今度は若旦那の離れにでも行かせてや」

「……それは、なにかダメな気がするので」

「ふふふ……いけず」

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