一 闇に紛れて

 夜、一人外に出る。

 他がどうなのかは預かり知らないが私たちの家というのは旅館と別にある。

 繁忙期などは緊急事態に備えるために両親が泊まり込んだりするが、まだ今は泊まる時期ではないらしい。

 もう年末が鼻の先まで来ているし、家から親がいなくなるのも時間の問題だろう。

 自室である離れから出ると、身を凍らせるかような寒気が肌を刺す。

 ちくちくと痛む頬をマフラーにうずめて、上着に手を突っ込んで極力外気に肌を触れさせないようにする。

 着込んではいるものの、それでも寒いものは寒い。

 暑さも大概だが、どれだけ着込んでも寒さは対策ができない気がしてならない。

 半永久的に寒い。

「……」

 夜中……という程でもない時間だが、この街は良くも悪くも昔の風情が残る。

 大抵の店はもう閉まっているし、二十四時間開いてる店というのもそう多くない。

「んむ……」

 離れに備蓄を用意しておくのだった。

 たまたま小腹がすいた時に限ってこれなのだから、人生というのはままならない。

 一歩進むごとに「いま戻れば暖かい部屋にすぐつくぞ」と誰かが言っている気がする。

 足を進めるのと寒波を浴びるのを交互にしている。

 冬将軍というものの力の強大さを知る季節である。

「……んむ、んむ」

 声を発することに意味があるとは思わないが、なにかしていないと寒いという感覚に全ての意識を持っていかれそうだ。

 神社に向かう大きな坂に沿って温泉街が形成されている。

 なんとか街にたどり着いたものの、今度は空いている店を見つけて物を買って帰らないといけない。

 この時間に空いているのは飲み屋ばかりだ。

 私の年頃で入る場所ではない。

「いや」

 びくり、とした。

 往来の少ないこの道で、その声を聞くとは思わなかったからだ。

「若旦那やないの、どないしはったん?」

「……どうも」

「買い出しどす?」

「……いえ、個人的な用事ですよ」

 彼女は旅館に備え付けられた浴衣とどてらを着ていた。

 そして、手には竹刀を入れるような袋を持っていた。

「そうなんや。そらご苦労さん」

「いえ、自分がきっかけの不便ですので……」

 そう言って会釈をしつつ別れようとすると、背に声をかけられる。

「若旦那。この辺で美味しいお店知らへんかなぁ?」

「……?」

 彼女が私たちの旅館に泊まりはじめてもう一年ほど。

 こういった時間の街の楽しみ方も心得ていると思っていた。

「普段旅館のお料理食べとるけど、うちお腹が空いてな」

 ぽん、と浴衣の上から腹に手を添えてみせる。

 白く長い指だ。

 爪は塗っているらしく、薄い青の色が乗せられていた。

 浅葱、というのだろうか。

 水や海のような雰囲気の色だった。

「……あそこのはなぶささんに皆さんよく行かれますね」

「若旦那も行ったことあるん?」

「えぇ何度か……」

 橙の室内灯が温かな木造のあの店舗の名物はおでんである。

 仕込みに時間をかけているのか店が開く時間が他の飲み屋よりも遅く、その代わりに店が閉まる時間も他より遅い。

 その他の料理も丁寧に調理された地元の名店というものである。

 私たち家族も年末年始の慌ただしさがされば半分貸し切りのような形にして従業員の方々たちとここで食事をする。

 忘年会と新年会を合わせた親睦会だ。

 閑話休題。

 ともかく、あの店は人に勧めるに足る存在であると私は考えていた。

「ん。ほないこか、若旦那」

「……はい?」

 く、と服を引かれる。

 彼女が何を言っているのか、一瞬理解ができなかった。

「食べ盛りやし、ご飯食べてそれなりに時間たっとるやろ。一緒にいってくれへんやろか?」

「い、いえ。悪いですよ」

「それはうちがお客さんやから? それとも、純粋にうちとおるんが嫌なんかどっち?」

 遠慮だ。

 彼女と一緒に食事をするのに、いいも悪いもないだろう。

 だが、強いてその二つのうちから選ぶなら、と私は言葉を選ぶ。

「お、お客様だからです……僕は、一応従業員ですので……」

「なんや。やったらええわ」

 解放されるか、と思ったが私の服を引いていたのが指から手に変わっただけであった。

「なんか言われたらうちがええように言うとくさかいにな」

「いえ、ですから……」

「ええやろ。うちと遊んどくれやす」

 また、あの黒い瞳が私を見る。

 冷たく痛い風に乗って甘い香りが鼻に入り、私の肺を満たしていく。

 心の奥がくすぐられたかのようなこそばゆさと、強く打たれたかのような痛みが心臓から体の末端へと走っていく。

 息が浅くなるような感覚はきっと現実のもので、気づけば私は彼女の言葉にうなずいていたらしい。

 ゆらゆらと彼女に引かれるままに私の足は前へと進んでいったのだから。

「若旦那」

「……はい」

「ええ子ええ子。うち、自分に正直な子ぉは好きやよ。ふふふ」

 そうやって彼女はいたずらっぽく、そして優しく笑う。

 どこかぼんやりとした頭で、ああこれが酔いなのだろうか、と思った。

 暖簾をくぐり、引き戸を開けて、私たちは席に通されていくのだ。

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