丑寅の女

鈴元

零 奇妙な客人

 例えば、どうしようもないほどの気持ちを抱いた時、人はどうするのだろう。

 私はその答えを未だ決めかねていた。

 こういったものはその時になれば自然とあふれ出すものだと思っていたものの、現実はそうでないらしい。

 私は私で色々と考えてはあるのだが、なかなかどうしてこの答えが出ない。

 この道を進むべきか戻るべきか、決めかねる。

 そんな人と出会ってしまった、あるいは出遭ってしまった。


 私は温泉街に生まれた。

 もっと詳細に事を申せば、私はある旅館の次男坊に生まれた。

 この世に生を受けて大体十四程の頃である。

 自慢をするようで気が引けるが、この辺りではそれなりに名の知れた宿である。

 とはいえ、そんなことを話したいわけではない。

 目下、私が気になるものというのは一人の女性についてだ。

 このような物言いをすると大抵の人は「ははあ、さては惚れたのだな」と早合点をされるかもしれないが、実際のところはそうではない。

 先に申し上げた通り、私の家は旅館を営んでいる。

 彼女はその宿泊客なのである。

 それだけであればなんらおかしいことはない、ほかのお客様と同じだ。

 しかし『彼女は一年以上泊まり続けている』

 これは、あまりないことだ。

 長期間の滞在を行うお客様もたまにはいるがそれでもひと月ほどだろうと肌感覚的に思う。

 彼女は旅館を拠点のように扱っているようにも思えた。

 いわゆるホテル暮らしのような、そんな印象だ。

 思えば、彼女は私たち家族の前に現れた時から不思議な雰囲気だった。

「これで、足りるやろか」

 関西のものらしい独特のイントネーションで話す彼女は手に持っていたカバンいっぱいの札束を見せたらしい。

 何か犯罪で得た金かとも思われたが、明確に怪しい点があったわけでもなく私の家族は彼女を宿泊客として受け入れた。

 それから彼女は旅館に住むようになった。

 毎月の末に宿泊料をまとめて払う(それも、何割か色を付けた額で)それが彼女のやり方で誰も文句をつけなかった。

 そして、私はいま彼女のいる部屋に向かおうとしている。

 今日は月末、宿泊料の受け取りの日である。

「若旦那」

 私が部屋のふすまの前に膝をつき、声をかけようとした時だった。

「……」

 時々、こういうことがある。

 彼女はなにか、おかしい。

 私が足音を立てていたのかとも思ったが、人の往来はほかにもあったように思える。

「若旦那、そこにいはるんやろ? おこしやす」

 その声に誘われ、失礼しますと言葉を発してふすまを開ける。

 彼女は座布団の上で胡坐をかいていた。

 夜の空を写したような真っ黒な髪と、どこまでも深い真っ黒な瞳と、座っていてもわかる背の高さ。

 ゆらり、と立ち上がってみればその背が成人男性の集団の中に紛れ込めるほどのものだとわかる。

 ゆったりとした服は体格を覆い隠しそうなものだが、浮き上がり、女性的な肉体の流れが分かった。

「お金やね?」

「……はい、末日ですので」

「部屋、あがりや……まぁ、うちの部屋やないんやけどね。ここの部屋借りとるだけやから」

 畳を踏む、部屋に上がる。

 彼女は私に指でふすまを閉めるように促して、私はそれに応じる。

 部屋で二人きりの状態になってしまった。

 心のどこかで緊張している。

 鼓動が早くなり、耳に熱が灯ったようだ。

 そんな私の様子を見透かしたように彼女は笑って、部屋の隅に置いたカバンから取り出した封筒を机の上に置いた。

「はいこれ。今月の分。毎月のことやけどお疲れさん。女将さんに持ってって」

「ありがとうございます」

「あ、そうや若旦那。お小遣いあげよか?」

「い、いえ……大丈夫です……」

 何度も首を横に振る。

 それを見て、彼女はまたけらけらと笑っている。

「遠慮しいやね若旦那」

「……」

「どないかした?」

「そういえば……なんで僕のことを若旦那と呼ぶんですか」

 思えば出会ったときから彼女は私のことをそう呼んでいた。

「若旦那は若旦那やんか」

「……」

 若旦那、と呼ばれていいのだろうか。

 私はこの旅館の次男坊である。

 この旅館を継ぐのは私の兄だ、もし兄に何かあったとしてもその時は姉が引き継ぐのだろう。

 兄も姉もそんな運命を受け入れて、そのために必要なことを学びながら暮らしている。

「……僕は若旦那ではありません」

「別に、ええとこの子ぉも若旦那って呼ぶんやろ、多分……あ」

 ぐに、と私の頬を彼女の指がつまんだ。

 そうして両の手が私の頬を挟んで、潰すようにぐにぐにといじくりまわす。

「うぐ……が……!」

「別の名前で呼んだげよか?」

「ふぇふを……ははえれすあ……?」

「お名前なんて言うの?」

 黒い瞳が私を見ている。

 海の底のようにどこまでも暗く、黒く、深い。

 その瞳が私を見ている。

 いや、その瞳を私が見ている。

 飲み込まれてしまいそうな黒い色。

 私の姿すら映ることのないその黒に、飲み込まれる。

「若旦那」

「むぃ……!」

「ふ、ふふふ……あははは」

 けらけらと笑って私の頬を解放する。

 やはり、私の頬は熱を持って熱くなり血の巡りが活発になったかのように思える。

 からかわれている、そんな気持ちがある。

「そんな物欲しそうな顔せんでええよ」

「……してません」

「ふふふ……しとった」

 これ以上は水掛け論的に終わりが見えなくなりそうだ。

「……失礼します」

「若旦那」

「……なんでしょう」

「ここって年末年始も開いてんの?」

「営業しております」

「ほんならよかった。この時期に野宿はしたないからなぁ」

 礼をし、私は部屋を出ようとふすまに手をかける。

 年末年始に泊まりに来るお客様は多い。

 この街の近くにはそれなりに大きな神社があり、運が良ければ雪が降って風情が出る。

 ありがたいことに、今年も満室の様子である。

「なぁ」

「は……い……っ!」

 私はふすまから一旦手を離して振り返った。

 目の前に彼女がいる。

 いつの間に距離を詰められたのか、いやそれよりもなによりも、彼女が近すぎる。

 私の鼻をくすぐる甘い香り。

 ぴたり、と私の頬に手が触れる。

「やっぱりもち肌やなぁ」

「なっ……!」

 すり、と私の頬を撫でた手が動く。

 触れるのが手のひらから指先のものへと変わり、顎をなぞり唇へと触れる。

 柔らかく、滑らかな肌の感触。

 また顔に熱がともる。

「若旦那。また、遊びにき」

 その言葉に何も返せなかった。

 ただ静かにふすまを開き、迅速に部屋の外へと飛び出した。

 お客様の前だということも忘れてだ。

 失礼なことをした、というよりも恥ずかしいという感情の方が強かった。

「……な、なんなんだあの人は」

 そう一人つぶやくと、彼女の笑い声が聞こえた気がした。

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