第35話

「でも、こんなこと言うと不謹慎かもしれませんが、今、楽しいです。」


 日高が感情を隠さず表現することは珍しかった。そして、結城は同じことを考えていた日高を見て微笑む。


「前の居酒屋会議で野上が『ロボット作りたかった』って言ったの覚えてますか?……あの気持ち分からなくもなかったんですよ。」


 結城は、「俺もだよ。」と言って日高と笑い合う。


「仕事だからと言って、楽しんじゃいけないなんてことはないと思う。ちゃんと、やるべきことをやっているのなら問題ないし。……それに、たぶん今は風見さんが一番楽しんでると思うんだ。」


「そうですね。」


 そこまで語った後、日高の表情から突然笑みが消えて影が落ちた。


「……結城さん、野上は大丈夫でしょうか?」


 結城は、この問い掛けに心の準備をしていなかった。

 野上の様子がおかしいことに日高が気付いていることは不思議ではないが、心配する言葉を口したことが意外だった。


「アイツ、単純だから悩み始めると深みに嵌りそうで怖いんですよ。難しいことを考えても無駄なんだから、適度に馬鹿でいてくれた方がいいんです。」


「適度な馬鹿って、酷い言われ方だな。……でも、暗い表情の野上を見ていたくないのは同意見だ。」


「そうですよ。アイツが暗くなると雰囲気も悪くなるんです。」


 分かり易い憎まれ口だが、気遣っているのが伝わってくる。

 結城は、書類を片付けてから大学へ行こうと予定を組んでいたのが、現在の作業を切り上げるて出発することにした。


 結城の行動で野上の状況を好転することが出来るのかも分からないが、気持ちが落ち着かなくなっていた。


 身支度は5分程度で済ませてしまい、ホワイトボードの訪問先には適当に取引先の会社名を書いておくことにした。日高の話の直後だったので、「東部大学」と書くのを遠慮する。


 ただ日高は結城が書いた訪問先を読んでも何も言ってこない。部屋を出ていく結城に向けて「お願いします」と、声を掛けてきたので気付いていたのかもしれない。



 結城は、昼過ぎに東部大学に到着していた。

 一度しか来たことのない結城は、どこから攻めるべきか迷ってしまう。前回来た時も、野上たちの案内に従って歩いていたので曖昧な記憶しかない。


 乾も試作機の話が進んでいる中で、部材調整に時間を取られてしまっている。同行を願い出ることは簡単なのだが、業務に無関係な心配事に人手を割くことは避けたかった。


――黒川教授のところへ行っても、現段階で意味はないな。おそらく、野上を悩ませ続けている元凶は白井だ。


 結城が考える根拠として、黒川教授は風鈴チームの開発進度にしか興味を持っていないと考えたからだ。黒川が野上個人に対して干渉することには意味が無い。


 結城が考え事をしながら大学の案内板を見ている時に、スマホが鳴った。

 ディスプレイには表示された名前は「風見」だった。


「もしもし、結城です。」


『あっ、お疲れ様。今、大丈夫だったか?』


「大丈夫です。……何かあったんでしょうか?」


 結城が出掛けた時点で、風見は試作機の企画書を提出しに行っていた。もしかしたら、結城の不安が的中して叱責される事態が発生してしまったのかもしれない。


『いや、こっちは問題ないんだけど。……東部大学に行ってるんじゃないかと思ってな。結城に大学で会ってほしい人がいるんだ。』


 嘘の目的地など何の意味もなかったらしい。


 だが、「会ってほしい人」とは一体誰なのかが分からない。結城が東部大学で知っているのは「黒川教授」と「白井講師」の二択になるが、白井講師とは面識もなかった。


「大学には来てますけど……、誰に会えばいいんですか?」


『姫野さんという女性なんだ。その人の連絡先を教えるから電話して合流してもらえないかな?……野上について相談がしたいらしい。』


 初めて聞く名前だった。その「姫野」という人物は、野上についての情報を持っているらしい。

 結城は、折良く舞い込んできた連絡に気持ちが高ぶった。だが、相手のことが分からないのだから、冷静に対応しなければならない。気持ちを落ち着けて、風見から聞いた連絡先の記録した。


「分かりました。話を聞いてみます。」


『あぁ、頼むよ。……それと、企画書については驚かれたけど、奇跡的に怒られてないから。詳しいことは戻ってきたら話す。』


 結城は「よろしくお願いします。」と言って電話を切った。


 風見との電話を切って、間を置かずに姫野に連絡してみた。

 最初は小さな声で訝しげな応答だったが、結城が名乗ると明るく元気に話し始めてくれる。

 結城が現在地を案内板の前と伝えると、その場所まで迎えに来てくれることになった。


 小走りで結城のいる方に向かってくる女性の姿が見えた。電話を切ってから3分ほどしか経ってはいない。


「……申し訳ありません、お待たせしました。……姫野です。」


 大学構内はかなり広い。どこから走ってきたのかは分からないが息が上げっている。僅かの言葉を発するのも辛そうに見えた。


 結城は、女性の顔に見覚えがあった。


 チーム全員で黒川教授を訪問した日、学生食堂でチキン南蛮定食を勧めてくれた女性だった。確かにその時、野上は面識がある女性と言っていたはずだ。


「結城と申します。……学食で、一度お会いしていますよね?」


 姫野は、「ハイ。」とだけ答えて息を整えている。

 それから少しだけ時間を置いて、呼吸の落ち着いた姫野は姿勢を正した。


「こんなに早くお話できる機会がくるなんて考えてなくて、少しビックリしました。でも、良かったです。」


 長身で綺麗な女性だが飾った雰囲気はない。服装も動きやすさを重視したラフな感じであり、ショートカットが似合っていた。

 アクセサリーも両耳のピアスくらいで、肩から下げたトートバックのデザインもシンプルなものだった。


 結城は妹以外で年下の女性と会話することが久しぶりであり、スマートな対応が取れずにいた。仕事で男ばかりとやり取りしていた弊害が出てしまう。

 気の利いたことを言える余裕もないままに、すぐに本題に入ってしまっていた。


「えっと、野上のことで相談があると聞いていますが、詳しく教えていただけないでしょうか?」


「……あっ、大学内では少し都合が悪いので、外でお話できませんか?」


「ええ、構いませんが、この近くで話が出来るお店も分からないですから、案内してもらってもいいですか?」


 結城と姫野は、大学近くにある喫茶店に行くことなった。

 歩いていくには距離があるというので、結城の車で移動することにした。


 車で到着したお店はデザイン性の高いカフェである。大学に近く学生のお客が多いこともあるので、会社の隣にある喫茶店とは全くの別物だった。

 テラス席まで設けてあるのだが、二人は店内の奥の席に座って話すことにした。


 席に着くとすぐに、注文を聞きに来てくれる。木製の壁は白く塗られており店内は全体的に明るく、スタッフの女性も可愛らしい制服を着ていた。

 結城は、目の前に座る姫野と店の雰囲気に若干気後れしてしまっている。


――こんなんだから、妹にもバカにされるのか……。


 仕事をしている時のように余裕を持って対応出来てれば問題ないが、なかなかに上手くいかない。


「突然、スイマセンでした。私、大学院で時々黒川教授の雑用を手伝ってるんです。いきなり訳の分からない電話で、会社の方も驚いたと思うんですけど……。大丈夫でしたか?」


「それは気にしないでいただいて大丈夫ですよ。……それよりも、よく開発室の電話番号が分かりましたね。ホームページには代表番号しか載ってないのに。」


「あっ、それについては、野上さんの名刺を盗み見したんです。……でも、和風な会社名だと勘違いしてたので、電話してからビックリしちゃったんです。」


「えっ?もしかして『風鈴』のことですか?」


「そうなんです。『風鈴の野上』ですって自己紹介してたので、『風鈴』が会社名だと思ってたんですよ。……名刺では番号だけで会社名まで見てなかったんです。」


 そう言って姫野は笑った。


 結城は以前に、野上が長い社名に愚痴を漏らしたのを聞いていた。それ故なのか、社名でなくチーム名を自己紹介に使用したのかもしれない。

 社会人としては多少問題ある言動に、結城は苦笑いしてしまう。

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