第36話
「それは申し訳ない。『風鈴』は私たちの開発ルームの名称なんです。野上が手抜きして名乗ったんですね。」
姫野は、「野上さんらしいですね。」と笑いながら言った。
この様子を見る限り、野上のことを好意的に捉えてくれていることが窺える。
「野上さん、黒川教授の話で難しい専門用語が出てくると、後でこっそり私に聞きに来ていたんです。私の拙い説明にも一生懸命にメモを取ってくれて。」
結城には容易に想像できる光景だった。
野上の場合、女性と話をする口実としてではなく、純粋に説明を聞きたかったのだろう。だから、姫野も好意的に受け止めてくれている。
「……最初に野上さんとお会いしてから、短い時間しか経ってないんですけど、どんどん元気がなくなっていって。……時々、思い詰めた顔で大学の廊下を歩いてたりして、心配になったんです。」
「……私たちも同じです。最近、元気がない様子を社内で見て心配していました。……それについての原因が分かればと思い、私も大学に来ていたんです。」
「それで、今日、大学にいらしてたんですね。」
「いや、それが来てはみたんですが、行き当たりばったりの行動で途方に暮れていました。……ですから、姫野さんからの連絡は本当に助かりました。」
注文していた飲み物をスタッフが運んで来たので、「飲みながらで話しましょう。」と結城は勧める。
あまり良い話にならないことは分かっているので、出来るだけ重い空気にはしたくなかった。
「……でも、大学に原因があると考えられたのは正しいご判断だと思います。」
「……やっぱり、そうなんですね。……でも、最初に野上を悩ませていたことは徐々に解決に向かっていたんです。」
「はい。……良いものが開発出来るかもしれないって聞いてます。その時は、笑顔でお話してくれてたんです。」
野上が、そのことを姫野に伝えていたことは意外な感じがしている。食堂で姫野を見た後の反応からは想像できなかった。
「そうなんです。だから野上が悩み続ける理由はないと思ってたんですが、一向に改善していない。それどころか悪化しているようにも思えるんです。」
姫野は黙って頷いて、言葉を探すようにして話し始めた。
「……ずっと、野上さんを追い詰めていたみたいです。お仕事が休みの日にも大学に来ていたみたいで。」
「追い詰めていた?……もしかして『白井』という講師の方ですか?」
姫野は、頷いたまま下を向いてしまっている。
結城は苛立っていた。白井という男の存在と同じように、自分自身の遅鈍さにも腹を立てている。
もっと早い段階で大学に来て確認しなければいけなかった。結城自身も言っていたはずだったが、業務の慌ただしさにかまけてしまい、肝心なことを後回しにしてしまった。
結城は野上が「気に病んでいたことの一つ」を解消したに過ぎなかった。それを、全ての問題が解決できているかのように勘違いをして気を緩めたことを後悔する。
――俺の読みが甘かった。
野上と乾の話を最初に聞いた時、白井という人間を警戒していた。明確に疑う根拠はなかったが、経験的に怪しいと感じていた。
「その白井ってヤツは、何がしたいんですか?」
「あ、はい。文学の講師なんですが、黒川教授の研究にも興味を示してたんです。それで時々、研究室にも来ていました。」
「今回、黒川教授から預かった研究成果についても詳しく知っていたみたいですよね。だから、野上や乾にも接近した?」
「それは私にも分からないんです。白井先生は全くの畑違いですから、黒川教授の研究で野上さんと話す必要なんてないはずなんです。」
結城は乾からの報告でも似たようなことを聞いていたが、その点については姫野も分からないらしい。姫野の口振りからも、学内で厄介な存在なのかもしれない。
「……ただ、白井先生って、あまり評判は良くないんです。以前も、コソコソと学生を集めていて学校から注意されたこともあるみたいです。」
「コソコソ学生を集める?……白井は何をやっていたんですか?」
「詳しく内容までは……。噂話程度のことなので……。」
姫野は言葉を濁してしまっている。自分が通っている大学の講師に良くない噂話があるのだから、醜聞を外部に漏らすことに抵抗があったとしても仕方がないと結城は感じた。
だからと言って、結城が姫野に配慮して追及を止めてしまえば、大学にまで足を運んだ意味がなくなってしまう。
「噂程度だとしても、白井という男には悪い噂を打消すだけの信用がないということですね?」
「はい。……ですから、野上さんとも何かあったんじゃないかと思ったんです。」
「何かあったと思った。……思っただけですか?」
姫野は話しにくそうにしていたが、結城も無駄に時間を費やしたくはなかった。白井という人物と出会ってからの僅かな期間で、野上は大きく変わってしまっている。
思い詰めたような顔で仕事をしている野上を思い出すと、一刻も早く対処する必要があった。
「一つ明確にしておきたいことがあります。正直にお答えいただけますか?」
結城の言葉に、姫野は身体を強張らせて緊張した。
学生相手に威圧的な聞き方をしたくはなかったが、これからの行動を決めるためには確信が必要だった。
「姫野さんは、野上が悩んでいる原因が白井だと断定している。野上の同僚である私たちに、そのことを連絡するまでの確信を持っている。……それには根拠になる出来事があるはずなんです。それを教えていただけないでしょうか?」
最初下を向いていた姫野は、意を決して顔を上げて話した。
「先週の夕方、大学で野上さんを見かけたんです。そしたら教室に入っていったんですけど、二時間くらいしたら白井先生と一緒に出てきました。……その時の野上さんはすごく怖い顔をしてたんです。」
全員が業務に追われており、慌ただしく過ごしていた中での出来事になる。野上は自分の仕事を終えてから、白井を訪ねていたらしい。
「二時間も?教室の中では何をしていたか分かりませんか?」
「ドアの窓から覗いてみたんですけど、タブレットで映像をずっと見てました。……たぶん、いろんな被災地での映像だと思います。私も以前見せられたことがあるので……。」
姫野は、少し涙声になっている。それを必死に堪えながら話していた。
「それは、野上からも聞いたことがあります。……でも、長時間映像を見ることに何の意味があるんでしょう?災害が悲惨なものであることは、今やネットで簡単に見ることが出来るんですよ。」
情報化社会で、改めて白井から知らされるものなどあるのか結城は疑問に感じていた。野上も仕事の都合で情報収集は手慣れているはずだ。
「……白井先生は、避難訓練と同じだって言っていました。」
「避難訓練と同じ?どういうことですか?」
映像を見ることが訓練と同じ。どんな理屈で、そんな話になるのか結城には理解が追いつかない。
野上や乾からの報告を受けた時にも感じてはいたのだが、白井はいけ好かない男である。要所要所で相手を試すような言葉を使っていた。
「災害時の動きを確認する訓練ではなくて、災害時に何が起こっても平常心を保つための訓練になるみたいです。」
「平常心を保つための訓練?」
これまでの言葉の中にもヒントはあったが、結城は白井が見せた映像が予想出来始めていた。
「白井が見せた映像というのは?……以前に姫野さんも見たことがあるとおっしゃっていましたよね?」
「はい。最初は被災地で復興作業をする人たちの作業風景や惨状に打ちひしがれている人たちの姿とか……。そんな映像を見せられました。」
「それだと、テレビやネットで流されている映像と違わないですよね?……本当に、それだけですか?」
「えっ!?……あの、私が見た映像はそれだけでした。」
最初に乾から受けた報告でも同じことを聞かされていた。だが、結城は違和感を覚えている。
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