第8話 王女さまの猫4



 たしかに窓の外には男が立っていた。だが、宙に浮くわけでもなく、体が透けているわけでもなく、ふいに消えるわけでもない。


 おそらく、生きた人間だ。


 そうと気づいて、ワレスは急いで部屋をぬけだすと、ろうかを走った。階段をかけおり、一階に来るとてきとうな部屋の窓から外へとびだす。


 が、そのときには、テラスには誰もいなかった。

 ワレスの気配を感じたせいか、それとも言いたいことを言ったので、満足して自分の寝室へ戻っていったのか。

 それにしても、やけに早かった。庭をまわって移動したなら、どこかにまだ姿が見えるはずだ。


 ワレスはまっすぐに伸びるテラスをながめる。

 ラ・ヴァン公爵は一階の二部屋が婚約者候補二人の客間だと言った。あるいはそのうちのどちらかに、は入っていったのでは?


 しかし、だとすると、もう一方の客は夜中の亡霊のひとりごとに、まったく気づいていないことになるが。


 足音を殺してテラスを歩く。明かりのもれている窓はない。どちらの客も寝入っているのか?


 そっと忍び歩き、一つずつの窓をのぞく。ガラスのむこうは、どこもカーテンで覆われている。これでは、どこがそれかわからない。


 賓客用の客間の真下と公爵が言っていたから、上を見あげつつ、位置をたしかめ、それらしい部屋の前までは立った。が、なかは静まりかえっている。客人が起きているようすはなかった。あるいは、ワレスが通りすぎるのを息をひそめて待っている……。


 明日は最初から、このテラスで待っていようと、ワレスは心に決めた。


 さあ、三階に帰ろうと考えたときだ。ニャアと鳴き声がして、足元に何かがすりよってきた。素足の部分を毛皮がなでる。


 見おろすと、王女の猫だ。

 なぜ、こんなところにいるのだろう。王女がウッカリ窓をあけっぱなしにして寝てしまったというところか。


「チェチェ。おまえ、ご主人さまが寝てるすきに夜遊びか?」

「ニャアン」


 ご機嫌だ。猫は本来、夜行性。飼いぬしの生活にあわせて昼間に起きるよう習慣を変えることはできる。それでも、夜間になると元気があまっている。


 しかし、公爵家の敷地から出れば、どこへ行くかわからない。通りには馬や馬車や野犬などの危険もある。そもそも行方不明になれば探しだすことは難しい。


「チェチェ。来い。おまえのお姫さまのもとへ帰るぞ?」


 黒猫は聞いていない。客室の一方へかけより、ガラス扉をカリカリとひっかいた。なかへ入りたいのかもしれない。

 しばらく見ていたが、なかから窓がひらくことはない。

 ワレスはその窓の位置をおぼえて、猫を抱きあげた。


 チェチェは三階の賓客室へ帰ると、見なれた部屋だからか、飼いぬしと離れていてもさほど困るようすもなく、ベッドの上にとびあがった。ワレスよりさきに布団に入って丸くなる。


「しょうがないやつだな。まあ、姫君の猫にノミはいないだろうからゆるしてやるよ」


 美女のかわりに黒猫とよりそって眠る。


 翌朝。外が何やらさわがしい。ろうかへ出ると、小間使いたちがけんめいに探しものをしている。


「王女さまの猫か? それなら、ここにいるが」

「よかった。姫さまがたいそうご心配なさっておられます」

「おれがつれていこう」


 二階へ行くと、王女は倒れそうな顔色で椅子にすわっている。その前で男が一人、ウロウロしていた。

 身なりから言って、高貴な身分だということはひとめでわかる。ワレスと同じくらいの年で、平凡な顔立ち。ユイラで平凡というのは、つまり、それなりに整っているということだ。


「猫ですか? そんなに猫が好きなら、私が何匹でも買ってさしあげますよ。もっとめずらしいのや、ユイラでしか手に入らない品種など」


 泣いている王女の前でアレコレ言っているが、なぐさめになってない。


 ワレスはひらいたままの扉を右手でコンコンとたたく。左手には、猫。

 顔をあげた王女は、ワレスの抱いた猫を見てかけよってきた。


「チェチェ!」

「昨夜、私の寝室に迷いこんできました」

「この子はわたしが母国からつれてきた大切なお友達なの」

「あなたの寝室と間違えたのでしょう」

「ありがとう。ほんとにありがとう」


 ワレスと王女のやりとりが気に食わなかったのだろう。男が近づいてきて、ワレスの前で傲岸ごうがんにあごをそらした。


「おまえ、何者だ?」


 さて、どうしようかなと考える。

 おそらく、これは王女の婚約者候補のどちらかだ。たしか、アルメラに嫁いだ第一皇女の子息はまだ十代なかばのはず。ということは、こっちは現皇太子の弟。


 正真正銘の皇子だ。ただし、元皇子。皇太子が立太子するにあたって、皇位争いの後難をさけるため、縁戚の公爵家に養子に行っている。

 皇太子というのは、よほど頭の切れる、そして用心深い性質だ。実の弟も信用していない。


 それにしても、相手は自身の身分の高さになれきっている。こういう人物の前では、イヤだが、ひずまずいておくしかないかと、ワレスは嘆息した。


 しかし、そのときだ。ワレスが抱いていたチェチェが、急にシャーッと牙をむきだして、前足で皇子の手をひっかいた。白い手に赤い色がにじむ。


 皇子は一瞬、手をふりあげた。猫をなぐろうとしたのだ。しかし、王女があわててあいだに立つ。皇子はふてくされて、そのまま去っていった。


「皇子さまはチェチェに嫌われているようですね」

「わたくしも好きになれませんわ」


 そう言ってから、アンネマリー姫はあわてて口を押さえた。


「あら、いいえ。なんでもありません」


 ワレスは苦笑する。


「それはいたしかたない。自分より弱いものをなぐる男なんて、結婚してもいいことはない」


 王女のおもてが、またくもる。


 一人は男にしか興味のない、かなり年上の男色家。もう一人は王女より三つか四つ年下の少年。そして最後の一人も、年齢はつりあうが、あのとおり傲慢そのものだ。

 ろくな候補者がいない。

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