第8話 王女さまの猫5



「我慢する必要ないのでは? あなたはあなたが思う人を選べばいい。誰を選んでも、完璧とは言えないかもしれないが」


 王女は沈黙のまま、ワレスの手からチェチェを抱きとる。


「わたくしね。恋をしたことがないの」と言って、扉をしめた。

 ただし、ワレスをなかに入れたままでだ。手招きすると、王女は窓辺の丸テーブルまで誘う。


「失礼ですが、王女さまはおいくつですか?」

「十八よ」

「なるほど。ユイラの女性より大人びて見える」

「グラノアでは結婚前にふしだらがあった女は一生、結婚できません。だから、わたくしも厳格に育てられました」

「ユイラとはかなり風潮が異なるのですね」

「そうでしょうね。この国の貴婦人はみんな気ままで、うらやましいわ」

「それでも、多くは親の決めた相手と望まぬ結婚をする。だからこそ、結婚前にたくさん恋をしておくのです」


 王女はさみしそうに笑う。

 かつて、同じ若草色の瞳を持つ人は、もっと熱っぽくワレスを見た。たしかにあれは愛だったのだと、失った今になって実感する。


「エニティさまと会ったとき、ホッとしました。エニティさまは優しくて、なれない外国へはるばるやってきたわたくしを何くれとなく気づかってくださいました。このおかたとなら結婚してもいいと思いました。でも、あんなことになって……」

「エニティさまを愛していたのですね?」


 つかのま、王女は首をかしげる。


「いいえ。そうではなかったと思うわ。もちろん、亡くなられたことは悲しかった。たとえ恋ではなくても、おだやかな夫婦生活になるだろうと考えていたから」

「でも、エニティさまはあなたに未練があったようだ。今でも会いに来るくらいだから」


 王女はそれにも首をふる。

「エニティさまには、ほかにお好きなかたがいたのよ」

「そんなウワサ聞いたこともなかったが」

「でも、そうよ。あのかたが会いに行くのなら、その女性のもとでしょう」

「なるほど。あなたは、それがさみしいのか」


 王女は瞳をあげて、ワレスを見た。見つめあううちに、ポロポロと涙がこぼれてくる。


「そうなのかしら?」

「ええ。きっと。あなたは自分で思っているより、エニティさまを愛していた」

「……そうかもしれない」


 ワレスは立ちあがり、王女の肩を抱きよせた。ワレスの胸で泣く王女と二人のあいだで、チェチェが迷惑そうな顔をしている。


 ワレスは彼女の気がすむまで待った。王女のぬれた瞳がワレスを見あげる。

 この瞳の人には泣いてほしくない。ルーシサスが悲しんでいるようで、胸がえぐられる。


「どうしたら泣きやんでもらえますか?」

「わたくしに、エニティさまを忘れさせて」


 きっと、これが最初で最後の自由なのだ。彼女は決心した。過去の淡い初恋を忘れ、決められた婚姻にふみだすことを。

 その前に、ただ一度だけ——


 唇をかさねると、チェチェは尻尾をゆらしながら逃げていった。椅子の下にもぐりこむ。


 午後の日差しがさしこむ明るい客室で、ワレスはひとときをすごした。満ちたりた幸福な時間を。


「あなたは猫みたいな人ね。気位が高くて、自由で、気まぐれ」

「まあ、犬型ではないかな」


 群れを作ることも、主人の機嫌をとることも興味がない。というより、今は仕えたい主人がいないだけなのかもしれない。


 王女は愛おしそうに、ワレスの髪を何度もなでる。


「きれいな金色巻毛の猫。あなたはわたくしの夫には誰がふさわしいと思う?」

「とりあえず、さっきの元皇子はやめたほうがいい」

「そうよね」

「結婚したあとも、おれと会いたいなら、ラ・ヴァン公爵かな」

「公爵は悪いおかたではないわね。少なくとも、わたくしを一人の人間として認めてくださる。態度もとても紳士的」

「でも、一生、夫とのあいだに子どもはできない」

「悩むところね」

「アーティさまというのは、どんなかた?」

「夫と言うには、まだ幼くて……」


 それはそうだ。十四、五の少年なんて、十八の娘にとっては、てんで子どもだ。まだ身長だって、王女のほうが高いだろう。


 アフタヌーンティーを王女の客間でとったあと、ワレスは一人で公爵邸を歩いた。昨夜に見た一階のテラスを散歩する。チェチェがひっかいた窓の位置を確認するついでに、客間のなかをのぞく。


 となりあった二つの部屋の住人の一方は、不機嫌に召使いに怒鳴りちらし、もう一方は戦駒で遊んでいた。対戦相手はぬいぐるみのクマだ。


「どうだい? もう降参かな?」

「まいりました。わたしの負けです。でも、お仕置きのさかさ吊りだけはかんべんしてください」

「さかさ吊りがイヤなら、僕ともう一回、勝負だ!」

「今度こそ負けません」


 なんて、声色を使って一人二役を演じている。なかなか器用に別人のような声を出していた。

 たしかに、まったくの子どもだ。しかし、部屋には鳥がいる。大きなオウムだ。それに、ウサギも。生き物が好きなのだろう。


(なるほどね。そういうことか)


 だいたいのところはわかった。

 しかし、まだの真意はわからないが。

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