第3話 劇場の魂になるまで6




「な、なんだこれ? ロウ? いや、違うな。ワッ! 虫がいる!」


 さわぐリュックにワレスは説明する。

「ハチだよ。ミツバチ」


 壁一面にならんだ巣箱。

 そのすべてに入りこみ、六角形の編みめのような巣を作っているのはミツバチだ。白い幼虫や卵もたくさんある。巣が大きくなりすぎて、ハチミツが床にしたたりおちている。


「ミツバチ? なんで、こんなところにハチが? いやさ。いくらなんでも、ハチがあんなうなり声を出すか?」

「あれは羽音が壁の空洞に反響して、獣のうなり声のように聞こえただけだ。ミツバチは外敵が巣に侵入してきたとき、仲間同士で球状になり、相手を包みこんで羽をふるわせる」


 リュックはまだ不信げな顔だ。なにしろ、恐ろしい魔物の正体が可愛らしいミツバチでは納得いかないのだろう。


「でも、リュック。前に地下を調べたとき、おまえは首をなめられただろ?」

「ああ、そうだ! 絶対に魔物の仕業だった」

「あれはハチミツだ。床からたれたぶんが壁のすきまを通って、最終的にあの場所に落ちてたんだ。証拠に甘い匂いがしていた」


 リュックはしばらく考えてから反論してくる。


「いや、でも、チエリは魔物にかまれて倒れたろ?」

「彼はミツバチに刺されたんだ。ミツバチはおとなしいから、めったなことでは刺さない。だが、チエリはの修繕のために、そのかしょを探してた。屋根裏にあがってきた彼は、ここで巣箱のなかのミツバチに気づいた。一人で退治しようとしたのかもしれない」

「ミツバチに刺されたくらいで死にかけるか?」

「チエリはたぶん、ミツバチに刺されたのが初めてじゃないんだ。二回め以降だと、まれに強い症状が出ることがある」


 リュックは腕を組んで考えこんだ。

 すると、それを待ちかねていたようなタイミングで、ミツバチたちがいっせいに羽をふるわせた。巣箱のなかの温度をさげるための行動だ。人間が大勢集まったので、室温が急に上昇したせいだろう。


 あのブォーンブブブと獣のうなるような音が部屋じゅうに響いた。

 さすがにリュックも納得したようだ。


「うーん。なるほどね。これが魔物の正体か。でも、じゃあ、歌声や人影は?」

「ああ、あれね。それより、上演時間が迫ってないか?」


 ワレスは言葉をにごしてごまかした。リュックはポケットから懐中時計を出してあわてる。


「もうすぐ時間だ! サヴリナ、魔物はいなかった。呪いなんてないんだよ。舞台に立てるな?」

「はい!」


 急いで階段をかけおりていく。ぶじに芝居が始まるようだ。

 翌朝には養蜂家の青年が来るから、ミツバチは彼がひきとってくれるだろう。たっぷりのハチミツつきだから、きっと喜ぶ。


 ワレスもみんなのあとから階段をおり、舞台袖へ帰る。

 カーテンのすきまから、舞台で歌うサヴリナやマリアンヌを、エルザが悲しげに見つめている。

 ワレスはその細い肩に手をかけた。


「エルザ。君も演じたいんじゃないか?」


 エルザはうなだれた。


「深夜に劇場に忍びこんで、歌ってるのは君だろう? フローランはそれに気づいてるようだが。君はマリアンヌの娘だから、裏口のカギの隠し場所を知っていたんだ」

「でも、お母さんはダメだって。そんなことしたら、わたしの寿命がちぢむから」

「そうかもしれないな。君は長生きできる体じゃない。静かに、体に負担をかけないようにして生きても、他人よりは短い人生だろう」

「…………」


 残酷なようだが真実だ。

 偽ってもしかたない。


「でも、エルザ。それでも、どんなふうに生きるかは君の自由だ」


 ハッとした顔つきで、エルザはワレスを見あげる。

 ワレスはうなずきかけた。


「どうしてもあきらめられないなら、今夜、舞台に来るといい」


 ワレスは信じていた。

 きっと、エルザが来ることを。


 案の定、真夜中になって、エルザはやってきた。今夜はワレスが先着して舞台で待ちかまえていた。


「エルザ。歌ってごらん」

「でも、人前で歌ったことないから」

「この前、聞いた。とてもキレイなソプラノだった。あれは今の演目の王女だね?」

「なんだか、わたしみたいだから。運命に抗いたいけど、最後は儚く散ってしまう。わたしの心を表してるみたい」

「歌って。エルザ」


 微笑んで、エルザは歌いだす。


 やはり、素晴らしい。透きとおるようなそれは、ランプの明かり一つで照らされる薄暗い舞台では、どこか彼方の天界から届く天使の歌声のようだ。

 生きたい、でも生きられない。ヒロインのつらい心情をよく表現している。


 セリフの部分になると、王子とのかけあいだ。ヒロインが自害する前のこのシーンでは、悪魔と王子がそれぞれに出てきて、一方でヒロインを死に誘い、他方では必死にひきとめようとする。

 もう何度も舞台を見て、すっかりおぼえたセリフを、ワレスは口ずさんだ。


 エルザは嬉しそうに目を輝かせ、ますます演技に熱が入る。ウットリと瞳をうるませ、ワレスの胸に身をゆだねるようすは、清楚でありつつ、成熟した大人の女性のような艶やかさもあった。


 さすがはマリアンヌの娘だ。演技に対する生まれつきの感性がある。それに、役に入るとふんいきが変わる。ふだんのおとなしい少女のイメージはもうなかった。


 悪魔にさらわれ、冥界へ旅立つ姫君。王子の腕のなかで倒れふす。


 演じきって、起きあがったエルザはこの上なく幸せそうだ。


「ワレスさん。わたし、やっぱり女優になりたい。そのせいで命が短くなってもいいの。だって今、こんなにも生きてる実感がする」


 すると、そのとき、観客席から拍手が起こった。数人の人影が立ちあがり近づいてくる。


「素晴らしい! もちろん、君は女優になるべきだ。エルザ」

「エルザ……」


 リュックとマリアンヌだ。

 ワレスがひそかに呼びよせていたのである。


「お母さん」

「……いいわ。あなたの好きにしなさい」


 女優のマリアンヌには、演じることへの情熱が誰よりも理解できたのだろう。目の前でエルザの才能を見れば、もう反対することはできなかった。

 それを推察していたから、ワレスはここへ彼女を呼んだのだ。


「よかったな。リュック。これで劇場にまた新星が生まれたぞ」

「うん。いい姫役になる。しかし……」


 リュックは感慨深い目つきで、ワレスをながめる。


「なんだよ? 約束どおり、事件を解決してやっただろ?」

「いや、エルザもだが、あんたも役者になれるぞ。ワレス。怖くて、そのくせ、やけに色っぽい悪魔だった」


 ワレスは高らかに笑った。




 了

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