第1話 かけぬける4
いったん、頭を冷やそう。
謎が解けないのは、まだワレスの知らないことがあるからだ。
馬小屋近くの木陰に入る。
そこにあるベンチに腰をおろした。
ここからだと、厩舎の人の出入りがよくわかる。
こうして見ると、各小屋へは入る者が決まっている。馬丁はそれぞれの馬についてきているから、よその小屋には行かない。もしも自分の馬ではない小屋へ出入りしていれば、とても目立つ。
(おけに毒を入れておくにしても、変だな。なぜ、ジョイフルヌーン以外の馬も殺そうとしたんだろう? 誰かがリリアンのためにジョイフルヌーンを引退させようとしたのなら、ほかの馬にまで毒を盛る必要はなかった。それも人気の馬ばかり……)
なんだかおかしい。
おれはとんでもない勘違いをしているのかもしれない。
競馬場の係員が走りまわっている。その直後、各厩舎から馬が何頭も出された。何やらあわただしい。
「どうしたんだ?」
「レースが始まるんです」
「でも、今日は中止になったはずだろう?」
「誰がそんなことを言いましたか? 元気な馬が半数いるので、レースは続行します」
「でも、倒れた馬はみんな棄権だよな?」
「そうなりますね」
しかし、集まっている客は金のありあまった貴族だ。誰も馬券を払いもどせなんて、しみったれたことは言わない。
そして、すべての厩舎にいつでも自由に出入りでき、誰もそれを疑問に思わない者……。
(あいつしかいない)
ワレスはいったん客席に戻り、レースを見た。
ジョスリーヌのオペラグラスを借りて観客席をながめていると、ほとんどの客は一番人気のラ・カールに賭けて負けている。大勝ちして喜んでいるのは、
「あら、貿易商のギヴォワね。彼、先月、持ち船が遭難して破産したって話だけど、運がむいてきたんじゃない?」
「そうなのか?」
「ええ。わたしは彼の店とは取り引きしていなかったけどね。いいウワサを聞かないから」
それで、だいたいわかった。
「なあ、ジョス。お願いがある」
「まあ、何? あなたから甘えてくるなんて、めずらしいのね」
「やっぱり、おれに馬を一頭プレゼントしてくれ。専用の馬丁つきで」
「いいわよ」
「ふだんはあんたの屋敷で預かっていてほしい」
「いいけど、どういう風の吹きまわし?」
「気に入った馬がいるんだよ」
言い残して、ワレスはふたたび客席を離れた。
ゲートを出る人々に対して、反対側の厩舎をめざす。さっきオペラグラスで確認していた人物が、その方向へ歩いていたからだ。
厩舎裏の木陰で、ひそやかな男の話し声がする。
「言われたとおりにしたぞ。金をくれ」
「ああ。いいとも。これからも、おれに協力してくれるんならな」
「バカ言うな。何度もこんなことできるか」
「じゃあ、金はいらないな」
「な、何をする気だ!」
物騒な物音がしていた。
ワレスは急いでかけつける。今まさに、男が獣医にナイフをふりかざしていた。その手をつかみ、ひねりあげる。
「イテテ、イテッ! 何しやがる!」
「おまえがギヴォワか。卑怯な手で多額の配当を得て、その金でまた商売を始めようと思ったのかもしれないがな。女の子を泣かすのはゆるせない」
さわいでいたので、人が集まってきた。競馬場の警備兵の前に、ワレスは二人をつきだした。
「こいつらが共謀して、馬に毒を盛ったんだ。獣医はどの厩舎へも自由に出入りできることを悪用し、目当ての馬の水おけに前もって毒を仕込んでおいた。リリアンに競技が中止になったとウソをついたのも、万一、ジョイフルヌーンが持ちなおしたとき、天才騎手の彼女がいなければ負けると考えたからだろう?」
獣医はすぐに観念した。ギヴォワに言葉たくみに誘われたこと、家庭の事情でどうしても金が必要だったことなどを
「ヒドイ! そんなことでジョイを二度と走れなくするなんて!」
リリアンの涙がもっともこたえたようだ。
「すまない。うちの娘が病気で……多額の金が必要だったんだ」
役人に連行されていく彼らを見ながら、ワレスは告げた。
「リリアン。今日からジョイフルヌーンの馬主はおれだ。好きなだけ競技を続ければいい。おれは勝敗なんて気にしないからな。そして現役を引退したら、おれが気がむいたときにだけ乗る。おまえと父にジョイの世話をしてもらおう」
「いいの?」
「ああ」
*
数ヶ月後。
後遺症もなく、復帰した白馬がコースをかけぬける。
その背には、長い髪をなびかせる少女が。
歓呼のなか、その姿はまるで風——
了
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