第1話 かけぬける3
リリアンの父の話を聞きたかったが、ここまで来たのだから、ついでにほかの厩舎のようすも再確認してみようと考えた。さっきは外からのぞきみただけで、情報収集はしていない。
となりの馬屋は一番人気のラ・カール号。そのとなりはジョスリーヌが気に入っていた黒馬、アルスターだ。
どの馬もいったんは落ちついたようだ。死んだ馬はいない。
さっきジョイフルヌーンを診ていた獣医がかけもちしている。競馬場で雇っている獣医師のようだ。今日はあちこち走りまわって、たいそう忙しい。
調査したところ、倒れた馬はすべて、その前に水を飲んでいる。
だが、
「井戸の水? おれ、さっき飲んだよ」という男が現れた。男というか、馬丁の少年だ。まだ十歳かそこら。
「それはいつ?」
「えーと、周回のあと。馬を小屋に戻して、自分も喉かわいたから」
それでは、井戸に毒が入っているという推理は成り立たない。馬にだけ、どうにかして選別的にあたえることができるだろうか?
「ちなみに馬の水はそれぞれ馬丁が井戸にくみに行くのか?」
「うん。そうだよ。おけでくみに行く」
馬の水おけは小屋同様、競馬場の所有物だ。つまり、レースがない日もずっと、そこに置かれている。こっそり近づくことさえできれば、前もっておけのなかに毒をひそませることはできる。
(そういうことか)
馬にだけ毒を飲ませる方法はわかった。あとは誰がなんのために、それをしたかということだ。
ワレスが黙考するあいだ、少年がやけに親しくリリアンに話しかけている。
「ねえ、リリアン。騎手をやめるってほんと?」
「やめないわよ」
「えっ? でも、お金持ちの養女になって、貴族と結婚するって話だけど」
「あんなの断ったに決まってるでしょ」
「そうだよね! リリアンは天才だもんね」
気になる会話だ。
「リリアン」
呼びかけると少女はふりむく。かぼそい手足の小娘だが、たしかに美少女だ。
騎手なんていう先行きのわからない仕事をしているより、貴族の奥方におさまることができるなら、そのほうがいい。
「その養女の話、くわしく聞かせてくれないか」
「たいしたことじゃないの。わたしが騎手をしてるレースを見て、見初めた人がいるんだって。でも、もちろん断った」
「なぜ? 騎手なんて若いときしかできないし、人気商売だ。とつぜん、馬主がクビだと言いだすかもしれない」
「だけど、ジョイフルヌーンがいるあいだはいっしょに走りたいの。ジョイがもう競走馬としては年をとりすぎてるってわかってる。でも、ジョイは一戦ずつ、いつも気力をふりしぼってくれてるの。わたしや、みんなのために。わたしはジョイのその気持ちにこたえたい」
ジョイフルヌーンのことを話しているときのリリアンは、ほんとに輝いて見えた。
大人から見れば、良縁をことわるなんて、もったいない話だ。が、しかし、本人が心から望んでいるなら、それをするほうが幸せだろう。
見るだけのことは見た。
リリアンの父の話を聞きに帰ろう。
そう考えてひきかえした。厩舎の戸口で、よその馬屋から帰ってきた獣医に出会った。
「リリアン。今日のレースは中止だそうだ。もう帰っていいよ」と、話しかけてくる。
「いいえ。ジョイが立てるまで帰りません」
「それじゃ何日かかるかわからない」
ジョイフルヌーンは後遺症が残れば、そのまま処分されるかもしれない。リリアンはそれを案じているのだ。これでは片時も離れられない。
ワレスはたずねた。
「馬主は誰だ? 今ここに来ているのか?」
「たぶん。レースのときはいつも見にくるから」
「じゃあ、ジョイフルヌーンを引退させるなら買いとらせてくれと申しでてはどうだ? 現役馬でなければ、さほど高くはない」
ところが、背後から会話に割って入る者がある。
「それはできない。馬肉屋にひきわたす値段でも金貨三十枚はする。うちじゃ、とてもそんなに出せんよ」
ふりかえると、リリアンと同じ菫色の瞳の男が立っていた。リリアンの父だ。
「だが、毒を飲まされたんだ。馬肉屋にも売れまい。だとしたら半値には値切れる」
「だとしてもだ。残念だが、たくわえはもうまったくないんだ」
リリアンが悲しげに目をふせた。すると、父親が続ける。
「リリアン。おまえが養女になれば、そのくらいの金はさきさまが出してくださるぞ」
「……お父さんは、わたしがよその子になってもいいんだね?」
「それがおまえのためだ。お父さんはおまえに幸せになってもらいたいんだよ」
「わたしの気持ちなんて、ぜんぜん考えてない!」
リリアンは泣きながら走っていった。
そのうしろ姿を、父親は嘆息で見送る。
ワレスは彼に声をかけた。
「御しがたい年ごろだな。親心をさっぱり解しない。しかし、あの子はもう自分の足で歩ける」
「まだ子どもだ」
「あんたの気持ちはわかるよ。馬主からクビを切られれば、その日から路頭に迷う騎手なんかより、裕福な家庭の奥さまになるほうがいい。だからって、娘が兄妹のように大切に思ってる馬を殺そうとするなんて、やりすぎじゃないか?」
「なんのことだ? 私が馬を殺すだって? ジョイを? ジョイは私にとっても息子みたいなもんだ。まっさきにかけつけて胃洗浄したのは私だぞ」
男は顔を真っ赤にして憤慨している。ウソのようではない。てっきり、この父親が娘のために、ジョイフルヌーンを引退させようとしたのだろうと思案したのだが。
どうやら、それも的を外している。
何かのピースがたりない。
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