第1話 かけぬける2



「その馬は助かるのか?」


 ワレスがたずねると、獣医は顔をしかめた。


「解毒剤を飲ませた。もともと馬にしちゃ致死量にはほど遠い。だが……後遺症が残るかもしれんな」


 ワレスは学生時代に学校で得た知識を頭の片すみからひっぱりだす。

 ヒ素の後遺症は手足のしびれ、体のふらつきなどだ。競走馬としては致命的である。


「そうか」


 誰か知らないが酷なことをしたものだ。現役を引退した競走馬のほとんどは、殺処分されて馬肉になるのだ。運がよければ、種馬や貴族の馬車用の馬として再出発できるだろうが、その数は少ない。

 走れない馬は馬ではないというわけだ。


「馬が勝手に毒を飲むわけがない。誰かが飲ませたんだ。あんたたち、怪しいやつを見なかったか?」


 獣医は首をふった。

 ほかの馬丁たちもたがいの顔を見あわせるばかりで、何も言わない。


 誰も答えるようすがないので、ワレスは馬小屋を出た。よその厩舎でも話は聞ける。そう思い歩いていく。


 短い距離のあいだにたくさんの厩舎がならんでいた。どれも二、三頭しか入らない。

 ここは競馬場が出場前の競走馬をあずかる目的で所有している。つまり、レースがない日は馬もいないし、無人になる。


(誰もいないすきを狙い、エサに毒を仕込んでおいたとか?)


 しかし、どの厩舎にどの馬が入るのかはその日にならなければわからない。

 それにレース前にエサを食べさせるとしても、それはかなり前だろう。走る直前にぐあいが悪くなったということは、毒が混入していたのは飼い葉ではない。


(では、おそらく水だな。レース前の周回が終わったあとで水を飲む馬は多いはず)


 水は井戸からくんできただろう。でもそれなら、同じ水を人間も飲むのか? もしそうなら、あるいは人を狙って毒を盛られたのかもしれない。


 考えていると、あとからついてくる者がある。リリアンだ。薄紫の瞳で、ワレスを見つめていた。


「何か?」

「ジョイをあんなふうにしたやつを探してるの?」

「まあな。誰がしたことかわからないが、個別の馬が憎くてやったわけじゃないだろう。馬主か競馬場か、人間相手の恨みからか。そうなら、また同じことをする。つきとめて捕まえなければ」

「わたしもついていっていい?」

「かまわないが、なぜ?」

「ジョイはもう七歳なの。今年が走れる限界。競走馬にしては長く続いてるほうなんだって。でも、いつ馬主に引退を言い渡されてもおかしくない。このごろ、なかなか勝てなくなってきたし。もしも、これで後遺症が出て、殺されてしまったら……わたし、そいつのこと、ゆるさないわ」


 ワレスは不思議だった。

 騎手とはいえ、なぜ、この少女はそこまで一頭の馬に執着するのか?


「おまえはただの騎手だろう? 馬主に雇われているのか?」

「そうよ」

「じゃあ、なぜ、ジョイフルヌーンにそこまでこだわる?」


 リリアンは目をふせた。


「ジョイフルヌーンは、もとはわたしのお父さんの馬だったの。うちは数年前までわりと裕福な商家で……でも、火事を起こしたせいで何もかも失ったの。延焼した近所への賠償金を作るために、土地や残っていた家財も売って。そのときに、ジョイフルヌーンも手離した。わたしには子どものときからいっしょに育った兄妹みたいなものなのに」

「なるほど」


 リリアンにとって、とても大切な存在というわけだ。兄妹同然ならば、殺処分だけはなんとしてもさけたいだろう。その日がとつぜん、おとずれてしまった。犯人を憎むのは当然だ。


「いいだろう。関係者がいたほうが話が早い。井戸はどこだ?」

「井戸?」

「毒は井戸の水にまぜられていた可能性が高い」

「井戸水に……」

「その場所に案内してくれ」


 うなずいて、リリアンは厩舎の裏へつれていってくれた。小さな庭に、小さな井戸。だが、のぞくと清水が湧きだしている。


「この水は人も馬も平等に使うのか?」

「そうだよ」

「そうなのか?」

「そうだけど?」


 思わず、ワレスは黙りこむ。

 それはおかしい。

 馬と人間では体の大きさが根本的に違う。毒の致死量は人より馬のほうが圧倒的に多いのだ。同じ水を飲んでいれば、人間がさきにバタバタ倒れている。だから、てっきり井戸は別々だと思っていたのだが?


「リリアン。おまえはここの関係者だ。内部事情に通じてるだろう? ジョイフルヌーンが周回を終えたあと、水を飲んだか?」

「それは飲んだよ」

「その水を運んできたのは誰だった?」

「お父さんだよ」

「おまえの父か?」

「商売がダメになったあと、馬丁として働いてるんだ」


 さっき小屋のなかにいた馬丁のなかの誰かが、リリアンの父だったらしい。


 以前は大金持ちだった男が全財産を失い、かつての自分の馬の世話をする……。


 それはかなり皮肉な状況だ。人によっては卑屈になる。自身の不遇ふぐうを恨んでもしかたない。馬たちにとっては完全に逆恨みだが、鬱憤うっぷんを晴らすためにやったと考えられなくもない。

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