―あの日のヒーロー(1)―

 朝の散歩コースは決まっていた。アパートを出てから20分ほど国道沿いの道をてくてく歩き、橋を渡って川べりの道をひたすら進む。……と、途中に大きな公園があるので、そこでベンチに腰かけてしばらく小休止した後、ストレッチをしてからまた同じ時間を掛けて自宅へ戻る……。余程の事がない限りルート変更はしなかった。


 この日もいつも通りのコースを辿り、行き掛けに公園近くのコンビニへ立ち寄ってペーパードリップ式のコーヒーを購入してから、それを片手に公園へと向かった。

 公園には先客達がいた。

 朝6時30分。ベンチに腰かけて朝食のサンドイッチを頬張ほおばる出勤前のサラリーマンやラジオ体操をする者。犬の散歩をする者やジョギングをする者もおり、公園は朝からたくさんの人で賑わっていた。

 しかし、彼がいつも座るベンチだけは今日もしっかり空いていた。……いや、空けてくれていたのだ。先客たちは皆朝の公園の常連達で、各々おのおのには公園内における所定の縄張りみたいなものがあって、それを侵さないよう互いに不可侵条約を暗黙の内に結んでいたからからだった。……まぁ、とは言え、時々見知らぬ新参者によって、彼のベンチが占拠されてしまっている事もままあったが……。


「よっこらせ」と早速お気に入りのベンチに腰掛けさせてもらうと、ため息が一つ自然とこぼれた。少々歩き疲れたようで、手にしていたコンビニコーヒーを一口すすると、今度はホッとして別のため息がこぼれた。

 丁寧に焙煎されたコクと香りが口一杯に広がり、彼はしみじみと感じていた。

(……ようやく俺もブラックが美味いと思えるようになってきたなぁ……)

 本当は砂糖とミルクをドボドボ入れたいところだが、かかりつけの医者に「あまり消化に良くないから」との理由でブラックコーヒーを勧められて以来、我慢して飲み続けてきたのだ。以前まではてっきり砂糖とミルクをたくさん入れた方が胃に優しいと思い込んでいた彼には、まさに目からウロコだった。

 しかし、それが不健康な飲み方だと知った途端、彼はきっぱりと飲み方を改めた。味よりも健康維持の方が最優先だったので。よって医者の忠告は何でも聞き入れ、勧められるものはこれまで何でも試してきた。長生きがしたいから……というより、明日来るやもしれないお迎えの直前まで、とにかく健康であり続けてぽっくりと最期を迎えたかったからだ。不摂生が祟って介護を必要とするような体になる事だけは、独り身ゆえにどうしても避けたかったからである。生来せいらいの律儀な彼の性分しょうぶんが、それを己の恥と考えていた。


 宮野留雄みやのとめお70歳。そのおかげか、年の割に体はよく動いている方だと感じていた。

 何せ79歳で他界した留雄の親父がまだ70歳だった頃は、もう脚はヨボヨボで腰はくの字に曲がり、杖をついて歩くのがやっとだったのに、彼ときたら未だ背筋もピンと伸ばしたままスタスタ歩けるし、杖などもちろん不要で、腰や膝も痛くなかった。父親は総入れ歯だったが、留雄にはまだ自前の歯がほぼ残っており、高血圧や目に緑内障りょくないしょうを患っている事、内臓の一部にガタがきている点を除けば体はまだまだ頑健がんけんで、定期健診で医者からも「大丈夫大丈夫、それだけ足腰が丈夫ならまだあと20年はいけるよ」とのお墨付きも頂いていた。……というか留雄自身、まだそこまで顕著な衰えを実感しておらず、正直、自分が年寄りの仲間という自覚さえほとんどなかった。それなりに普段から持病の高血圧に影響しない範囲で、スポーツジムで鍛えているおかげ……というのもあるのかもしれないが。


 体を資本にしていた元アクション俳優の矜持きょうじとして、鍛錬の継続は一生涯の己の責務と考えていたからである。

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