山々

 僕は特に優れたこともない。コミュニケーションがうまいわけでもないし、運動もできない。勉強もできなければ、人付き合いも苦手だ。理系じゃない。そんな人間なのだ。僕は本が好きだった。本に集中していれば、傷つくこともないからだ。変な気遣いをする必要もない。だから今日も図書館に来ている。この図書館は結構広くて、三階建てだった。二回は勉強するところで、ある程度が集まるのだ。だからこそ僕は三階の静読室まで足を運ばなければいけない。まだ若いので、そこまで億劫ではなかった。

 そう、まだそこまで遅い時間じゃないのだ。腕時計を見ると(ちなみに僕は手首の内側派だ)時計の針は二を指していた。僕は近くの公園でサンドイッチを食べたばかりだ。ゆっくり階段を上がる。コツコツと、音が響く。天井が高く、遠くまで響くのだ。耳をすませば、喧騒さえ聞こえる。この感じ。嫌いではなかった。

 僕が三階の踊り場につくまで、一人とも会わなかった。それもそうだろう。この静読室、利用しているのは僕だけだ。そもそもネットとかそういうものがあって、若者はほとんど本を読まない。読むとしても二階で溜まって読むのだ。僕は少し悲しかった。

 ここの廊下は日当たりがいいのだが、二時となると日は傾き、少しひんやりとしていた。だが、外は日当たりがいいので、景色はよく見えたのだ。そう山々。それは日が当たっていた。僕はその遠くの山々を見て、一つ引き出しを開けた。いや、見つけたというべきか。完全に彼方。果てしなく遠い、そんな記憶だった。


「神様はね。お空の上にいるんだって。」山の頂上で座り込んで彼女は話し始めた。


「へぇ、君は宗教に入ってないと思っていたんだけど。」いい空気を味っていた。


「ちがうわよ。ちょっとした『母の教え』だわ。」


「ほぉん。だったら君のお母さんは、、」


「ちがうってば。しつこいひとね。」少し意地悪な笑い方をしてしまった。


「悪かったって。どうぞ続けて。」


「うぅん、、続けるわね」彼女は少し上を向いた。


「母はね、病気だった。肺の病気でね、長い間戦わなきゃいけなかった。とても重いものだったのよ。けど、彼女はたくさんのことを教えてくれたわ。卵焼きの作り方から、分数の割り算。社会での生き方から、人間の愛し方。聞いたらなんでも答えてくれたわ。そんな優しい、弱々しい人だったのよ。」

 彼女も思うところがあったんだろう。白い肌に一線入った。


「一回だけ母の夢を聞いたの、少し涙ぐんで、母は答えたわ。」

普段は澄んでいた声が、少しづつ濁りだした。汚いとは感じなかった。


「山に行って、大声で叫びたい。それが母の夢だったわ。不満を全部神様にぶつけるんですって。山が一番神様に近いから。その頃私は七歳で、きっと母は私に、お伽噺を話すつもりで話したのよ。でも感極まってしまった。あまりにも悲しそうな声だったわ。」彼女は立ち上がり、一枚の紙を開き、それを読み始めた。


 僕はここで戻った。思い出せないのだ。そう、忘れてしまった。ただ地面のシミを思い出したまでなんだ。今思えば、僕は彼女が好きだったのだ。きっと自覚はなかったんだろう。でも、あとから思えば、かけがえのない人だった。僕は山々に別れを告げ、静読室に向かった。

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