とある田舎の総合病院で起こった、不思議な邂逅の話

M.S.

とある田舎の総合病院で起こった、不思議な邂逅の話

 とある時、派手にすっ転んで右足首の骨を折って、入院した事がある。

 転ぶまでの経緯は実に下らない。それはもう、説明する本人が恥ずかしくなってしまうような類の原因さ。

 それについては話さない。

 『右足関節捻挫』

 『右足関節外果剥離骨折』

 『右足関節外側靭帯断裂』

 それが診断名。

 全く、手術もしないといけないって言われて参ったよ。病院からは二カ月で出てこれたんだが、まぁ、その間が地獄なんだ。

 機嫌悪そうな看護師に。

 人の命の単位が、あやふやになってそうな医者。

 隣人のいびきとか、痴呆が進んで夜中に叫びだす老人。

 はっきり言って、多分このテーマパークを開放すれば、それなりに見世物小屋として機能するんじゃないか。

 そういう空間に、閉じ込められたんだ。

 ただ、そんなこの世の『終わったもの』達の集積場みたいな場所で、暇潰しになる程度の出会いがあったんだ。

 それについて話すよ。


────────────


 その日は、今まで居た病棟を出て、別の棟に移動する日だった。

 なんでも、手術したばかりの人と、病状が安定した人で病棟を分けてるみたいで、僕は『安定した』と見做されて転棟する運びになった。

 まぁ、手術で足首が継ぎ接ぎになったばっかりだったんだが、看護師によると、病棟がいっぱいだからはやく次の病棟に行ってくれ、と担当医師からお達しが来たんだと。

 それで、新しい棟の四人部屋の一角にぶち込まれたはいいけど、また同室の奴が可笑しな奴ばっかでさ。

 一人はテレビの音が五月蠅うるさい。

 一人は鼾が五月蠅い。

 一人はたんの絡まった呼吸が五月蠅い。

 僕はもう、既にこういうのが嫌で嫌で。

 だから、ナースコールで看護師を呼んで、ナースステーションの横にある休憩所に連れて来てもらう事にした。

 そこだったら、看護師の目もあるから、常識の範囲でなら何やっててもいいらしい。

 本棚もあって、そこには色々と雑誌類から子供用の絵本、古ぼけた文庫本があって、暇潰しは何とかなった。

 元々、本を読むのは好きな方だったから苦にはならなかった。

 ずっと、色の褪せた文庫本を読んでたら、病棟内が騒がしくなった。

 飯の時間らしい。

 看護師か看護補助の人間かは知らないが、誰かの舌打ちが聴こえた。

 誰に向けたものかは知らない。

 ただ、だっだっ、と足音五月蠅く廊下を足早に歩いて行った。

 要するに、要介護者の移動の介助が結構手間なのだろう。

 仕方ない。

 文庫本を閉じて、読んだ所までのページで折っておく。

 それを本棚に戻して、僕は車椅子で食堂に向かった。


 食堂には幾つも長机が並べられて、それを真ん中で区切るようにして通路がある。

まるで何処かのしょぼい大学の講義室みたいだった。

 終活の講義でもするのかって?

 笑えねぇ。

 笑えないレベルの病状の老人が多くいる。

 一人で飯も食えないような。

 だから、その年寄り集団の中では僕は浮いてる方だったよ。

 んで、明らかに浮いてるのがもう一人いた。

 中央の通路から右半分は男性、もう左半分は女性っていう具合に患者が分けられてる。

 だから、長机の通路側に座れば、通路を跨いで隣の席には異性の人が座る訳だ。

 隣には、僕と同じくらいの女が居たんだ。

 そいつの前、後ろ、奥は婆さん、その隣も婆さん、ずうっと婆さん。

 だから、やっぱりそいつだけ浮いてる。

 そいつの髪はまぁ大層長くて、飯を食う時も食器に髪がかからないように押さえながら食ってた。

 髪、縛りゃいいのに。

 髪留めくらい持ってないのか?

 それだけ伸びる程、入院してるのか?

 ちらちら、窺いながら不味い病院食を食ってると、その内、向こうと目が合ってしまった。

 するとそいつは、軽く会釈してきた。

 彼女が軽くこっちを向いた所為で、顔貌が露わになったが、まぁ色が白い。

 良く褒め言葉として言われる常套句かもしれないが、その白さっていうのが本当に、病気って感じがした。

 『薄幸』って単語が浮かんだ。けどその後に続く文字は『美女』じゃない。

 何かっていうと……、『薄幸の佳人』か? ……いや、意味はあんまり変わってないか。

 だが、『美女』というよりは『佳人』と呼びたくなる佇まいだった。

 こっちも軽く会釈をした。

 そいつは微笑したように見えたけど、スプーンで掬った病院食を口腔に運ぶ時の口唇の動きが、偶々そう見せただけかもしれない。


────────────


 何日かした後、同じように飯を終えて、そのまま休憩所に向かった。

 丁度、手にした文庫本を読み終えて、二冊目の文庫本を本棚から見繕っている時だった。

「今仕舞った本、読み終えた?」

 まだ背景には食器とスプーンがぶつかる音とか、ナーシングカートの廊下を行く音が遠くで鳴っている中で、やたら透明度の高い声が耳に入った。

 『薄幸の佳人』が休憩所の出入り口の辺りから、僕に声を掛けていた。

 休憩所には僕以外居ない。

 ここに来る奴もそう居ない。

 飯を食い終わった老人は自室に連れていかれて、横にされるだけだ。

 なんだかテリトリーに入ってこられてしまったような感じがしたが、別に人が居ないってだけで、僕の縄張りという訳でもない。

「丁度、読み終えた所ですけど」

 そう答えると、そいつは車椅子の僕に近付いてくる。歩の運びはなんだか弱々しい。

「なら良かった。それが読みたかったの。その本以外、全部読んじゃったから」

 全部、か。

 本棚には、確かに四段、全ての段に色々なサイズの本が押し込められている。

「……これ、全部読んだんですか?」

「ええ、ずっとここにいるから。あとその一冊で終わり」

 僕はそいつに文庫本を渡す。

 受け取ったそいつは文庫本をしげしげと、その場で眺めるもんだから気まずかった。

 用事が済んだなら、早く出て行けばいいのに。

 口も上手くないから、掛ける言葉もないし。

 そいつは一頻り本を、ぱらぱらめくると、そのまま来た時と同じく、弱い足取りで去っていった。

 何か一言くらい言えばいいのに。

 まぁ、ずっとここに居るって事は、そう言う事だ。

 きっと長期入院で頭が可笑しくなっているんだろう。


────────────


 ある時、友人が見舞いに来た。見舞いと言っても、ただ冷やかしに来ただけらしいが。

 頼み事をしていたので、その冷やかしも、甘んじて受け入れる事にした。

「ちゃんと持ってきたか?」

 そう聞くと、友人は大きな紙袋を持ち上げて見せた。

 中には沢山の本が入っている。

「ありがとう、もう帰っていいよ」

 そういう訳にもいかないらしく、友人はスマートフォンを取り出して、カメラをこちらに向けた。

 僕のあられもない姿を写真に収めてSNSに投稿するらしい。

 実に下らない。

 されるがままというのも癪なので、敢えてベッド上でポージングしてやった。


────────────


 その日、いつものように休憩所で本を読んでいた。

 友人が持ってきてくれたものだ。

 ここの本棚にはどうも、僕の趣味に合うものが無い。

「それ、面白い?」

 声の方に顔を向けると、やはり『薄幸の佳人』が立っていた。

 僕が手にしている本を見ている。

 ここの本棚には無い本だから、気付いたのだろうか。

「まぁ、この病院生活よりかは」

「なら、借してほしい」

「まだ、読んでいます。その後なら」

 彼女は顔を曇らせたが、仕方ない、というような顔をしてそのまま去って行った。


────────────


「何号室なの?」

 例によって、休憩所で過ごしていると、『薄幸の佳人』は絡んできた。

 そう聞かれて、どう答えるか、しばし考えた。

 嘘の部屋番号を教えても良いが、長くなりそうな病院生活の中で、本だけを相手にして時間を消費するのも、そのうち気が狂うかもしれない。

 今はまだ良いかもしれないが、その内に、人間の相手が欲しくなる事もあるだろう。

 長いスパンで現状を見据えて、僕は彼女を自室に招く事にした。


 場を自室に移して、雑談に興じる事にした。

 車椅子からベッドに移る僕を見て、彼女は言った。

「何の怪我なの?」

「足の骨折です」

「なんで骨折したの?」

「それは言いたくありません」

 そう答えると、彼女は歪んだ笑みを浮かべた。

「ふぅん」

 すると、彼女は病室を出て行った。

 なんだ、もう暇潰しは済んだのか。

 そう思って、ベッドサイドテーブルに置いてある大量の本の内の一つを、手に取り読み始めたが、程無くして彼女は戻って来た。

 手には一つのファイルを持っている。

「それは?」

「貴方のカルテ」

 彼女はにっこりと嗜虐的な笑みを浮かべて、それを僕の目の前でひらひら見せつける。

「これには受傷機転、要するに貴方が何故怪我して、どういう経緯でここに運ばれたかが、詳細に書いてあるのよ」

「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ!」

 僕は、彼女の手から、強引にカルテを奪い取った。

「あっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

 彼女は、僕がカルテを奪った際によろけて倒れてしまい、尻もちをついたにも関わらず、腹を抱えて大笑いしている。

「何が可笑しい」

 僕は怒った。

 僕の過去の事を詮索する事は別にして、ナースステーションから、それも他人のカルテを持ち出すなんて、言語道断だ。

「ふふ、入院してから、一番笑ったかも」

「……どうせ、もう、中身も見てるんだろう?」

「まぁ、ね」

 僕は大きく溜息を吐いた。

「もういい、じゃあ、代わりに、貴女の事を教えてもらう。それで、お相子だ」

 そう言って、僕は、逃がすまいと彼女の手首を掴んだ。

 その手首は細すぎて、僕が掴んだ際に、みしっ、と音が聞こえるようだった。

 又、手首を取り上げた際に、彼女の病衣から覗く前腕に、多数の痣を見た。

「別に良いわよ。何でも訊いて」

「何の病気でここに居る? 随分長いようだが」

「二つの病気で入院しているけど、長ったらしい病名で忘れてしまったわ」

「はぐらかすのか?」

「いえ、本当に忘れてしまったの」

 僕は少し、思案する。

 彼女の事を、少しでも暴かないと、気が済まない。

「……じゃあ、症状を教えてくれ」

「何というか、手足の力がどんどん弱くなっていくの。日に日に、不可逆的に進行性で。お医者様によると、時期に寝たきりになるみたい。あと面白いのが、両腕だけ、ベッドの柵とかにぶつけても、痛くないのよ」

 きっと、痛覚が無い所為で、前腕を、そこかしこにぶつける事に、頓着が無くなったのだろう。

 その過程で、痣を増やしたに違いない。

 『注意欠如・多動性障害』の人が、家具とかに腕をぶつけ易いのと、同じようなものだ。

 彼女から症状を聞いた時点で、僕の頭には二つの指定難病の病名が浮かんでいた。

 だが、その予想が合っていれば、最悪と言っていい。

 僕は、彼女の痛覚の有無を精査する為に、彼女の前腕を指で抓ってみた。

「いやぁ、痛いわぁ」

 彼女は、おどけて挑発的な声を発した。

 強めに抓ったが、実際は感じないんだろう。

「痛くないんだな」

「さぁ、どうでしょう?」

 彼女は不敵に笑う。

「もういい、だいたい分かった」

「ふぅん、もう良いんだ」

「……んで、僕の部屋には何しに来たんだ」

「本を借りようと思ってね」

「好きに持って行けば良い」

 僕は大量の本を置いてある、ベッドサイドテーブルを指差して言った。

「貴方は、何を読んでいるの?」

「三国志」

「じゃあ、それが良い」

巫山戯ふざけ……」

 僕は、言おうとした言葉を飲み込んだ。

 彼女がさっき言っていた『症状』を思い出したからだ。

 僕は優しいから、後が無い人間に対して、無下な扱いが出来ないんだ。

 結局、僕が読んでいた三国志は、彼女に持っていかれてしまった。


────────────


 少しして、僕は車椅子を卒業し、すぐに杖無しで歩けるようになった。

「わぁ! 立てたね。偉い、偉い」

 まるで彼女は、赤ん坊が初めて立ったとでも言わんばかりの言い草で、そうやって僕を馬鹿にした。拍手までしている。

 僕は怒って皮肉でも言おうとしたが。

 やっぱり、彼女の『症状』を思い出してしまう。

 彼女は、僕と違って、その内に自分の脚では立てなくなる。

「車椅子の卒業祝いに、屋上に行きましょう」

「僕は、別に行きたくない」

「私が行きたいの」

「僕を祝うんじゃなかったのか?」

「……だって、一人じゃ、屋上に行くの、許可されてないから…」

 そう彼女は、俯きがちに言った。

 要するに、弱い脚で独り、屋上に行く事を許可されてないんだろう。

 全く、そういう時だけしおらしくするなよ。


 屋上に来る事になった。

 僕は優しいから、困っている人は中々放っておけない性分でね。

 屋上まではエレベーターが通って無いから、階段を使わないと行けないんだが、これが彼女には堪えるらしい。

「ふぅ、……ふぅ」

 彼女は、片手は手摺りを握り、反対の腕は僕が掴んで支えている。

 そうして、ゆっくり僕が介助しながら、階段を上っていく。

「大丈夫か?」

「大丈夫。……もっと強く、腕、握って良いわよ。どうせ、痛まないから」

 その自虐には、何処か反動形成じみたものを感じる。

 それが自分の、どうにもならない病気に対する悔しさから来ているのか。

 それとも諦観から来ているのかは解らない。

 俯きがちに息を整えている彼女の顔は窺えず、真意を探る事も出来ない。


「屋上、久しぶりに来れたわ。ありがとう」

 彼女が自然な流れで礼を言うものだから、何だかそれが不自然に思えてしまった。

 だって、よく言うじゃないか。死期が迫ると人間ってのは優しく……。

「少し前までは、一人で来れたんだけれど」

「看護師に、付き添いを頼めば良いじゃないか」

「無理よ。自分の仕事があるのに、態々死に損ないが外の空気を吸いたいからって、我儘を言ったら嫌でしょ?」

「……」

「それに、どうせもう少ししたら、寝たきりなんだから」

 僕は、彼女の不快な自虐に、やはり苛つく。

 可哀想とは思うさ。

 でも、僕の怪我なんて、ただの骨折だ。

 彼女の病気とは訳が違う。

 飯食って寝てれば治るんだ。

 でも、彼女はそれじゃ、治らない。

 いつかはここを退院する僕が、いつかはここで死ぬ彼女に。

 何て声を掛ける事が出来る?

 否、出来る声掛けなんか無いんだ。

 けど、いちいち人を茜色の空の下に連れ出して、感傷に浸ろうというくらいには、彼女は助けを求めているらしい。

 そんな彼女に、丁度良い声掛けが無いから苛つくんだよ。

『きっと治る』

 いや、治らないけど?

『死ぬまでは精一杯生きよう』

 この肥溜めみたいな施設で?

 浮かんでくる言葉はどれも、本当に、本当に、薄っぺらい。

 きっと、僕の今までの人生が薄っぺらい所為なんだろうな。

 こんな事になるなら、物心付いた瞬間から勉強を始めて、東大に入って、一流企業に就職して、これ以上無い人生経験を積んでおくべきだったんだ。

 結局、僕の頭を捩った所で、この場で使えそうな言の葉は出てはこない。

「……僕の本、僕が退院する時あげるよ」

 やっとの事で、そう絞り出すのがやっとだった。

「ありがとう」

 彼女は、弱く、笑った。

 もし、僕が東大を出ていたら、彼女を大笑いさせるくらいの声掛けは、出来ただろうか?


────────────


 また別の日、態々わざわざ僕の病室まで来る事無いのに、彼女は僕のベッドの傍で、三国志を読みふけっていた。

「この武将、凄いのね。毒に侵された腕の骨を、医者に削って治してもらっているわ。それも、無事な方の腕で、碁を打ちながらよ」

「ああ。……確かに、僕だったら考えるのも恐ろしいよ」

「貴方だったら、きっと、こう言うのでしょうね…、やめろやめろやめろやめろやめ……」

「おい」

 僕は恥ずかしさを紛らわすように大きい声を出して、彼女を制した。

「あっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

 彼女はしばらく、腹を抱えて笑った。


「私の病気も、こうやって削って、治らないのかな」


 ……止めてくれ、そんな事、出来っこない。

 変な希望を持たないでくれ。

 今はもう、死を受容する為の準備期間に、貴女はもう入ってるんだよ。

「それは……、無理だ……」

「どうして?」

 自分でも解ってるんだろ?

 どうして、なんて、訊くなよ。


「貴女の病気、『筋委縮性側索硬化症』と『脊髄空洞症』を一緒に発症しているだろう?」


 僕は、指定難病である二つの病名を、口にした。

 前者は、いつかは寝たきりになる進行性の、四肢の筋力低下が著明な疾患。

 後者は、触覚は残存するのに、痛覚は消失してしまうという、『感覚解離』で知られる疾患。

 僕の言葉を聞いた彼女の、呼吸が、一瞬止まったのが解る。

「……それが、何?」

 やっぱり、解っていたんだ。

 長ったらしい病名を忘れた、なんて言うのは、嘘だ。

「どっちも脊髄の病気だ。骨の病気じゃない。脊髄を削って治すなんて、どうかしてる」

五月蠅うるさい!」

 彼女は、出会ってから今までの間で、一番大きな声を出した。


 この時は、流石に、カーテンを隔てて隣に寝ていた痴呆の老人も、驚いたらしい。

「なんだ、飯か?」


 彼女は、ほろほろと涙を流していた。

 そんな彼女を見たくてやっている訳じゃない。

 倒錯的な嗜虐心に目覚めた訳でも無い。

「もう、死に向き合う時期に来てるんだよ……。君は……、他の人と比べて、それが少し、早めに来ただけだ」

「私……、本当に死んじゃうの……?」

「今から、ゆっくり、向き合うんだ……。言い方が悪いのは分かってる。でも、期待は、しなければしない程、良いんだ」

 彼女は、座っていた椅子を弱々しく立ち上がって、何か言った。

「……てよ……」

 聞き取れない。

「私が病気かっ、確かめてよっ!」

「どうしろって言うんだ……」

「私の腕を叩いて! 痛くなるまで叩いてよ!」

「そんな事……、出来る訳無いだろう!」

 彼女は上の病衣を脱ぎ、病的な白磁の肌を僕に晒した。

「じゃあ、じゃあっ、私の体、痛覚が残ってる所、探してよ! もう、両腕っ、痛みを感じないの……」

 僕は悩みに悩み、遂には、彼女がやって欲しいというそれを、やってあげる事にした。

 詰まり、僕は、自分のベッドに彼女を引っ張って仰向けに押し倒し、彼女に跨る。

「じゃあ……、確かめてやる」

 僕は手始めに、彼女の手背と手掌を指で抓む。

「……痛くないっ」

 次に僕の歯で同部位を齧り、先程より強い侵害刺激を与える。

「……痛くないっ」

 彼女は落涙しながら答える。

 これは確かに、彼女の『死んでしまった部位を確認する作業』のようでもあった。

 涙を流すのも、無理はない。

 僕は、指で抓む事を『弱い侵害刺激』、歯で齧る事を『強い侵害刺激』として扱い、彼女の上肢の痛覚を、手、前腕、上腕、肩と、順に精査していった。

 彼女の、白い花弁のような手を。

「……痛くないっ」

 彼女の、ブレッツェンの生地を伸ばしたような前腕を。

「……痛くないっ」

 彼女の、白樺の細木のような上腕を。

「……痛くないっ」

 彼女の、鎖骨に浮いた、艶めかしい曲線が在住する肩を。

「……痛くないっ」

 抓み。齧り。

「……痛くないっ」

 精査した。

「……痛くないっ」


「……全然っ、痛くないっ」


 どうやら、上肢を支配する感覚は完全に解離して、痛覚は脱失しているようだった。

 精査は、胴体の上部に移行した。

 そして遂に、僕が彼女の乳房の上の方を抓むと。

「うぅっ」

 彼女はその侵害刺激に表情を歪ませた。

「痛いか?」

「……分からない……」

 僕は続けて、彼女の乳房の上を齧り、更なる侵害刺激を加えようとする。

 彼女は胸が豊かではないようなので、歯で肉を捉え辛かったものの、漸く成し遂げて。

「あぅ」

 彼女は遂に、痛みに喘いだ。

「痛むんだな?」

 痛覚があると言う事は。

 その部位を支配している脊髄の一部分に関しては、病変が無いという証左になる。

「うん……、うんっ。痛い。痛いよ」

 彼女は、歔欷によるものか、将又何か別の情によるものか、すっかり頬を紅潮させ、そう訴える。

「なら、今の所、三番目の胸髄からは、無事だ。正常なんだよ」

「本当? 本当に? そこは正常なの?」

「ああ、ここ、痛むんだろ? なら、そこは正常だ」

「……嬉しい」

 彼女は涙を拭い、僕の歯型だらけになったその両腕を、僕に絡めて抱き寄せた。


────────────


 それから何日か経った後、僕は漸く退院する運びとなった。

 僕は彼女の病室に寄った。

「あら、退院、おめでとう」

 カーテンを退かして病室に入ると、彼女は丁度、『それ』に勤しんでいる所だった。

 上の病衣の前を、開いて肌蹴させ、自分の鎖骨下から乳房に掛けての領域を、自分で抓って、そこの痛覚の正常を感じては、自分を慰めているらしい。

 僕が付けてしまった歯型は大方、消え失せたものの、彼女のそんな『自慰行為』のお陰で、彼女の胸部には内出血の痕が絶えず、生々しい。

 目を逸らしつつ僕は、目的であった紙袋を、ベッドサイドにあるテーブルに置いた。

「この本、暇潰しに使ってくれ」

「ええ、ありがとう」

「……じゃあ」

 僕は、彼女の『自慰行為』の最中だった事もあって気まずくなり、別れにしては味気無いものの、そそくさと立ち去る事にした。

 そうしようと踵を返した所、僕の手首を、彼女が掴んだ。

「待って」

「……」

 悪い予感がする。

「……また、して?」


 彼女が僕の手技で数回、達した頃、漸く彼女は僕を開放する気になったらしい。

「……見舞いに、来てくれる?」

 真っ赤な林檎のような頬になった彼女が、そう僕に『強制』した。

「……ああ、分かった」

 僕はお人好しだから、断れる訳も無くて、そう返事して。

 病院を後にした。


────────────


 それからは、時偶、彼女の病院を訪れては、彼女の『自慰行為』を手伝う、という事を繰り返していた。

 次第に彼女の病状は悪化し、痛覚を感じられる領域は、鎖骨下から乳房、乳房から下位肋骨、下位肋骨から臍、と、徐々に下に下に、降りて来ていた。

 四肢の筋力も落ちて、彼女は自身を慰める事もままならなくなり、遂には移動を車椅子に頼る事が多くなった頃。

 僕と彼女は、医師に、彼女の一時外出を打診した。


────────────


 一時外出の許可は、何とか、もらう事が出来た。

 まぁ、寝たきりになる前の、最後の思い出の為という事にすれば、普段は患者の身体に無慈悲にメスを入れる医者ですら、おいそれと首を横に振る事は出来ないという訳だ。

 どちらにせよ、許可されなかったら、勝手に彼女を連れ出すだけだったので、どちらでも良かったのだが。

 して、今、彼女は僕の運転する車の助手席から車窓を通して、向こうの景色に何か思いを馳せている。

「あの世があるとして、あの雲の向こう辺りかしら」


────────────


「貴方が、一番綺麗だと思った景色がある所に、連れて行って」

 そう言われて、僕は車を南に向かって走らせた。

 そこに着く頃には、もう陽は沈んでいるかもしれないが、別に良い。

 きっと、夜の方が綺麗だと思うから。

 田圃の生い茂る田舎道を通り。

 田舎街の寂れた中心地を通り。

 物哀しい国道を通り。

 うらぶれ、疲弊したビル群の間を通り。

 都市を外れて工場地帯を通り。

 その内、陽が沈んで、世界が、僕と彼女の二人だけのものになった辺りで。

 彼女は、また、静かに泣き出した。

 宛ら、今まで通った景色が走馬灯、通った道路が三途の川の流れのように思えてしまったのだろうか?

 だとすれば、彼女は鋭く、聡明だ。

 その川の流れの先にあるのは夜の海だからだ。


 立ち入り禁止の看板を無視して、埠頭に根付く会社の敷地に、車ごと侵入する。

「到着だ」

「ここなのね」

「ああ」

 埠頭の岸壁の向こうに、漆黒の海。

 その水面に映る、ちらちらと揺蕩うものは、向こうに見えている工場地帯を飾る、煌びやかな光だ。

 その工場地帯からは大きなクレーンが伸びて、僕等二人に『ようこそ』と、手を振っている。

「車から、出ましょう?」

「ああ、車椅子を出すよ」

 僕は、後部座席に乗せている、畳んだ車椅子を用意しようと運転席を出ようとしたが。

「要らないわ」

 彼女はそれを制する。

「……歩けるのか?」

「支えて欲しいの」

 僕は助手席に回り、彼女の起立を助けた。

 何とか立てるようだ。

彼女を支えながら、ゆっくりと、埠頭の端に向かう。

「……綺麗ね」

 彼女は海面に揺れる、光の不規則な踊りを見て微笑する。

 不意に吹いた、夜の潮風は彼女の歔欷によって紅くなった頬を冷まして、彼女本来の陶磁器のような、病的に白い肌を取り戻させた。

 まるで、それが死化粧とでも言うようだった。

 そんな横顔を見て、途端、胸が苦しくなる。


 埠頭を端に沿って、彼女を支えながら歩いて行く。

 遂に埠頭の角まで来てしまった。

「あの世は、此処にあったみたい」

 彼女は僕の手を離れ、海の闇へ吸い込まれるように、覚束ない足取りで独り進んで行く。

 埠頭と、海の境を、ふらふら、ふらふら。

「お、おい」

「……ほら、早く支えに来て。私、倒れちゃいそうだわ」

 僕は、慌てて彼女の元に赴いて、彼女の手を掴んだ所。

 彼女は後ろざまに倒れながら、僕の手をぐっ、と引っ張った。


「ごめんなさいね」


 それからは、歪んだ恋の重さの所為で、二人が海面に浮かんで来る事は無かった。



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