一、招介(しょうかい)

 谷内健は老人ホームから窓の外を眺めていた。もうこうして昔の思い出を振り返れるのもいつまでになるのだろうか。今年で六十三になる年を考えるとまだ先のような気もする。しかし、日に日に衰えていく体を思うと眼をそむけたくなる。どうもほかの入所者と同じようにただ楽しく暮らしていることが怖かった。不安というか、罪のようなものを感じていたのかもしれない。まだ生きたいそう思うことにどんな不思議さがあるのだろうか。


「谷内さん、お茶いかがですか。」

 たどたどしくお茶を渡されて、健は立ち上がった。紙コップに入ったお茶は持つには少し熱かった。

「お姉さん、名前は?」

「土屋かすみと申します。まだ座ってていいですよ、朝礼はみんなそろってからですので。」

 彼女の厚意に甘えて、また外を眺めることにした。彼女はあわただしく健の前を後にした。最近は、よくこうして外の車を眺めるのが生きがいとなっている。

 というのも、健はもともと友達が多いタイプだった。前までは、この朝の時間に友人二、三人と世間話をするのが日ごろの楽しみでもあった。しかし、最近この老人ホームの出入りが激しくなって、友達の多くがこの家を去ってしまったのである。



「皆さんおはようございます。今日は十月四日日曜日です。」

 いつも通りの朝礼が始まった。朝礼は五分ほどで終わる。最後に誰かが数分スピーチをするのである。健はこれが大の苦手だった。今日は六つ上の田中さんだった。彼はしっかり者で、スピ—チも難なくこなしている。

 最後の連絡では、いつも通り引っ越しの話が取りあげられた。住宅型の老人ホームからほかの施設に移動するのである。健はこの話が嫌いだった。近年重大な問題である高齢化。そんな中で高齢者の押し付け合いがあることに腹が立っていた。自分たちは要らないといわれているのではないか。こう考えてしまうのは、年老いていく我々に共通していると健は確信していた。



 この日、健はスタッフの一人に声をかけられた。どうやら、新たな園への紹介のようだった。その名も、桃源園 。いかにもって感じだ。この園は、静岡の近くの島にあるようで、どうやら、政府の援助金のおかげでほとんどただで暮らせるらしい。一通り話を聞いた後、健は少し考える時間をくれるよう頼んだ。


 どうやら、ここに自分の居場所はないらしい。窓の前の定位置に戻ってきてため息をついた。


 健はここから見える公園が好きだった。いつも、子ずれの親たちが話し合っているのを見て自分の娘を思い出すのだった。健が娘を育てたのは、もう何十年も昔だった。当時は自分に頼ってくれていた娘も、今では結婚して都会に出ている。昨年妻が亡くなってから、娘は健を老人ホームに行かせるよう裏で動いていたのだった。気を使ってくれたのだろうが、当時は知らないうちに決められたことに少し腹を立てていた。


 そうは雖も、年を取るのは止められないし、この年になるとできないことも増えてくる。もう、次の世代に迷惑はかけないほうがいいということは十も承知だった。



 健は、この相談に乗ることにした。このことをスタッフの野口さんに話すとすぐにでも出れることがわかった。どうやら、もうすでに準備をしていたらしい。健は、移動のための書類に署名をし、移動するとしばらく会えなくなるだろう娘の一家に連絡をした。


 娘はすぐに電話に出て、今週末には会えることがわかった。


 健は、来週から桃源園で暮らすことに決めた。




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