第6話(襲撃の夜⑥)10歳
イーダはわたしを強く抱きしめた。
イーダのぬくもりを感じながら、わたしは思った。
このままずっとこうしていられたら。
そんな淡い願いを、激しく甲高い叫び声が引き裂いた。
あらゆるものを、突き抜け、突き通し、突き破るような。
それは夜啼鳥の声だった。
わたしとイーダは同時に扉の方へ振り向いた。
廊下の向こうから、敵が迫りつつある。
「この部屋に来る途中でいくつか結界を張っていたけど、時間稼ぎはここまでのようね」
イーダは腰のポーチから円筒を取り出した。呪文を唱え、部屋の隅に投げつける。円筒は爆発し、床に穴が開いた。
魔力で起動する魔道具の爆薬だ。イーダは紋章を失ったが、魔力の全てを失った訳ではない。
「アイカ、ここから一階に降りて逃げなさい」
わたしはイーダを見つめたまま、返事ができずに口ごもる。
「アイカさま、わたしが先に行きます」
ヨハンナがそう言うと、ひらりと下に降りた。そして「大丈夫です。来てください」とわたしを呼んだ。
「さぁ、アイカ。早くしないと、あいつがここまで来てしまう」
「でも、でも、イーダを残していくなんて」
一緒に逃げたい。無理矢理にでもイーダを連れて逃げたい。このまま二人とも逃げられるかもしれないのに。
そのときだ。
また夜啼鳥の声が響いた。
耳をつんざくような、鋭く、不快な声だ。
その声を聞いたとたん、わたしの視界はぐらりと歪んだ。
なんだこれは。
なんだこの感覚は。
扉の向こうにいるはずの敵の圧力を全身に感じる。まるで圧力に身体を絡め取られたようだ。
イーダが言っていた「蛇ににらまれた蛙」とは、このことか。
見られていないのに、見られているような。
目の前にいないのに、目の前にいるような。
つかまれていないのに、つかまれたような。
わたしの魂を、ぎゅっと握りこんだような。
これは魔法なのか。
いや、魔法とはもっと別の、
もっともっと、野蛮な力だ。
終幕の魔法使い。
本当に、本当に、そうなのかもしれない。
鈍色のローブを着た、女神ノルンの半身。
全てを飲み込み、世界を終わらせた魔法使い。
だが、こんな威圧的で残酷な力が、神の御使いなのか。
これでは神ではなくて、
まるで悪魔ではないか——。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「アイカ!」
イーダがわたしの身体を揺さぶった。
わたしはハッとして正気を取り戻した。
敵の不可思議な力のせいで、心が暗闇にとらわれていたようだ。
「あいつの力は普通じゃない。さあ、早く、アイカはここを立ち去りなさい」
わたしは、それでも動かず、立ちつくしていた。
イーダと一緒に戦える訳でもないのに。
魔法もろくに使えないのに。
イーダはわたしを抱き上げた。そして腫れていない方の頬で、頬ずりをした。
「アイカ、あなたは本当は素晴らしい力を持っている。いまはその力を発揮できていないだけよ。その気になれば、きっとすごい魔法使いになるわ」
イーダはわたしを抱き上げたまま、穴のそばに移動する。
「アイカ、でも覚えていて。みんなの紋章をあなたに背負わせたけど、魔法使いにならないなら、それでも別に構わない。どうか、無事に生きのびて」
そしてイーダは穴の下にいるヨハンナに「アイカを受けとめて!」と呼びかけた。
「さよなら、アイカ。あなたが妹で、わたしは幸せだったわ」
わたしは穴へと放り出された。
身体が落下する感覚のなかで、イーダへの思いがあふれる。大好きなイーダ。あなたが姉で、わたしも幸せだった。
そう伝えることもできないまま、わたしは穴から落ちてヨハンナに受けとめられた。
ヨハンナはわたしを抱えて走り出した。
華奢な身体のどこにそんな力があったのか、暗い屋敷の中を立ちどまることなく駆け抜けた。
屋敷の中には、わたしたち以外に人の気配はない。時おり、ガラス窓が割れたり、物が散乱したりしている中を、ヨハンナは器用に駆けていく。
使用人らが使う裏口から屋敷の外へ出たとき、爆発音がした。
二度、三度と轟音が響く。
イーダが戦っているのだろうか。
ヨハンナに抱えられたままわたしは振り返る。
月明かりもなく、屋敷は闇のなかだ。
わたしの部屋のあたりで、破裂音と共に窓ガラスが弾け飛ぶのが見えた。
あの不快な夜啼鳥の声が風にのって聞こえてくる。
ヨハンナが足をはやめた。
裏門に着くまで、誰にも会わず、誰の姿も見なかった。
あんなに沢山いた屋敷の人間が誰もいない。わたしたち以外には。
ヨハンナはすぐに馬を用意した。彼女は辺境の豪農の出身で、幸いにも馬の扱いには長けている。わたしを抱え上げて二人乗りでまたがると、もう一頭の手綱を手でひいて、器用に二頭並べて走り出した。
レイン家の屋敷までは丸一日以上の距離がある。馬が疲れてしまうので、ヨハンナは途中で乗り換えるつもりなのだ。
わたしはもう一度、屋敷を振り返った。
「イーダ、お父さま、お母さま……」
「アイカさま、飛ばしますよ。揺れますので、舌をかまないでくださいね」
再び爆発音が聞こえてきて、闇のなかで、新たな煙が上がった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
わたしは馬上で気を失ったので、その後の記憶は飛んでいる。
気がつくとレイン家でベッドに寝かされており、それから三日三晩、高熱を出して寝込んだ。
襲撃されたレピスト家の惨状が明らかになったのは、後日のことだ。
屋敷は爆風で破損し、火災で焼け、ほとんど形を留めていなかった。
宮廷と領民らの協力で調査がなされ、父と母の遺体が焼け跡から見つかった。左手の欠損は問題にならなかった。問題にならないほど、遺体が傷んでいたからだ。
イーダの遺体は見つからなかったが、炭化した衣服や装身具の一部が確認された。飴細工のようにグニャグニャに折れ曲がった剣も見つかった。いったいどういう状況に陥ればこうなるのか、調査に当たった人たちは皆、首を捻ったという。
最終的に屋敷にいた全員が死亡したと判定された。わたしとヨハンナを除いて。
こうしてわたしは生き残ったのだ。
家族のなかで、ただひとり。
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