chapter3

「行ってきますね」

 一子は事務所に顔をひょいと出すと、すぐ下の玄関に降りていった。

「いってらっしゃーい」

 彼女が玄関から外に出るとカイバが事務所の窓から手を振っているのが見えた。

 一子も手を振りかえす。

 空は綺麗な青空で、外に出るにはいいお日柄だった。

 今日は病院にいく日だ。

 一子は院長から勧められて、定期的に検査することにしている。

 記憶のこともあるが、体のこともある。なにせ、目覚めて最初の記憶が「体中が痛い」ということだ。骨がいくつも折れていて、切り傷もそこらじゅうにあって。

 しかしそれも常人より早く治ったのだという。なんたる回復力か、一子を診ていた医者はそう驚いていた。

 それに……。カイバには隠しているが、一子は筋肉女子であった。腹筋は六つに割れている。

 自分でもいつどこで鍛えたのかさっぱり分からない。

 一子は病院へ向かうバスの中、自分の腹筋を触りつつ考えた。

「(……私って、何だったんだろう)」

 カイバはヘンテコだけど、ちゃんと過去がある。

 トレジャーハンターの両親がいたし、院長とも長い付き合いのようだ。

 それに様々な持ち物を持っている。事務所も本も、好物のココアも。

「(私の持ち物は……)」

 一子が持っているものといえばビジネス用の鞄に、きっぷと黒い箱。

 最初から着ていたスーツに、新しく買ってもらったワンピースとスパッツ(今日はこれを着ている)。

 探偵と比べるととても少ない。好きなものも無い。コーヒーはよく飲むが、始めに事務所に来たときに出してもらったからなんとなく飲み続けているってだけで、それにココアのおまけ程度に淹れているだけで、好きってわけではない。嫌いでもないけれど。

「(私って……何ができるの? 何が好きで、何が嫌いなの?)」

 自分を理解できない。何にも興味を持てない。

 周りの人はそれができているのに、自分だけができていない。

 一子は自身の虚無に怯えながらバスを降りた。

 目的地はもう少し歩いた先だ。


 ***


 カイバはココアを飲みつつリモコンを操作しテレビをつけた。

『おとうさんといっしょ! はーじまーるよー』

 ぴっ

『ショートコント! 高反発枕』

 ぴっ

 カイバは次々に局を変えていく。

 彼が今観たいものはミステリーやサスペンスドラマだが、どうやらやっていないかCM中のようだ。

「良いのやってないかぁ。ふあ~あ」

 あくびをしつつリモコンのボタンを押す。

 ぴっ

『火事が発生しました。場所は、都内花園区の春マンション』

「え、花園区?」

 カナモリ病院のある区だ。

 まさしく一子が行こうとしているところでもある。


 ***


 一子は顔を下に向けて歩いていた。自分とは何かという、答えが出ない問いをぐるぐると考えながら。

 しかし、ふと顔を上げる。焦げた匂いがしたからだ。

 少し遠くに見えるマンションが燃えている。

 瞼の裏に一瞬、真っ赤な光を視た。

 肌が焼け焦げそうなじりじりとした痛み、体中の切り傷、打撲傷。炎を目に映した途端にそれらを

 どうしてだか、足がマンションの方に向かってしまう。

 近づけば、マンションの下に集まっている野次馬たちの叫びが聞こえた。

「子供が窓から顔を出しているぞ!」

 見上げると、四階の窓に少年が見える。苦しそうな顔をしている。

「消防は呼んだか?!」

「もう呼んだよ!」

「でも時間が無いぞ! 煙が出まくってる!」

 焦る野次馬達の声の中、一子は自分の頭が冷静でいることに驚いた。そして、次に自分が何をすればいいのか分かっていることにも。

「すいません、その紐貸してもらえますか」

 野次馬の一人にそう声をかける。「あ、ああ……」彼が持っていたのはビニール紐とはさみだ。足元には縛られた新聞紙。

 彼女はビニール紐を受け取ると、ある程度伸ばして切る。それからマンションを見上げた。

 子供のところへ行くための最短ルートを導きだすために。


 ***


『四階に取り残された少年を救うため、たまたま居合わせた女性がマンションの壁を登り、みごと救出!』

「えぇ……あの子そういうの出来たの?」

 テレビは今、どのチャンネルを見ても一子のことでもちきりだった。

 野次馬どもが撮ったのだろう動画が写っている。おい、本人の許可は取っているのか? 良くないぞそういうの。

 確か、ロッククライミングだったか。一子はそれに似た動きでマンションの凸凹や水道管を渡り登っていく。子供の元にたどり着いた後は、その子を背負いいつの間にか持っていた紐でお互いを結ぶ。それから、行きとは違いゆっくり慎重に降りていく。

 その一連の動きに、不慣れな様子はなかった。

「うぉお……」

 カイバは衝撃を受けた。

 記憶喪失の女の子、その言葉のイメージは大抵儚げなさや不幸せそうな感じだろう。だが見よ、彼女は実にアグレッシブなる女性であった。

 ……カイバはあえて、あえて今まで彼女の謎に踏み入れることはなかった。

 なぜなら、なんとなく、なんとなくだが、彼女の真実を知ることが果たして良いことなのかどうか確信が持てなかったからだ。

 あまりにも奇妙な一子の背景。来訪者の願いを叶える都市伝説まくら駅、個人情報に繋がるものが一切無い鞄の中身。そして、黒い箱。

 カイバもお金のことがなければ依頼を受けなかった。

 でも一子が普通に良い子だったから、普通に仲良くできた。


 カイバはおもむろに机の引き出しから箱を出す。

 母はマメな人で、よく息子に手紙を出した。この箱はそれをまとめたものだ。

 そしてカイバはその箱を開き、唯一開けていなかった手紙の封を開けた。


『忘却されし疑団について分かったことを書いておくわ、愛しい子。彼らは宇宙と交信してすぐれた技術や知恵を授けてもらおうと考えている組織よ。でも政府や国連が宇宙の秘密を隠していると思って、色んなところでテロをしている。愚かな人たちね。

 でもこないだ彼らは、あるものを博物館から盗み出した。多くの人の魂を奪って、それを悪魔を召還するエネルギーに変換するという『テリアの祭壇』。彼らは悪魔と宇宙人を間違えているみたい。だけどそれはまだ未完成のようで、私たちがこの間旅で手に入れたが必要なの。だから今、私たちは忘却されし疑団に追われている。

 カイバ、私たちの可愛い子。良い子でいるのよ。友達とも仲良くしてね。ピーマンはできれば残さないで、甘いものを食べ過ぎないで。カナモリ君には貴方のことを頼んだから、いざというときは彼を頼ってね』


 カイバは箱を閉じ、覚悟をした。

 もしも、彼女を探す者がいるとしたら。

 このニュースで居場所がバレたのだとしたら。


「逃げ回らなくっちゃなぁ……」


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