04#魔術師フィガロ

 蚕が作り上げたまゆのような、そくばくが完成した。

 内部でわずかに動くしんどうはあるが、やぶってくる様子はない。

 首に巻いた包帯はフィガロの手まで続いており、ピンと張れば紙のように文字が書ける。

 

 白衣の中からいずりでる手があった。それは左手。しかし手首より先はない。

 は水分を失って黄色くなり、場所によっては緑色のかびが生えている。

 つめは重病人のように黒く、その先からよどんだ茶色のすみにじんだ。

 

 這いずる手が包帯にれて、つまさきで「気絶」と書こうとした矢先。

 灰色のコンクリート上をビー玉が転がった。青の波線ががらの内部を泳いでいる。

 硝子玉の放つみずでっぽう。高圧縮の水だんが、包帯の布地をき破った。

 

「あ」

 

 声を出したものの、フィガロは特におどろかずに新しい包帯を取り出す。

 しゅるり、と布地をばしてむちのようにるう。それだけでビー玉をはじばした。

 包帯の側面がさらったしゅんかん、真っ二つに割れる。硝子のかけから青の波線が消え、代わりにバケツ一ぱい分の水が包帯の繭に降りかかる。

 

 繭の至る部分に書かれた「無効」の字がける。

 フィガロは自分と繭をつなぐ包帯の布地をき、倉庫の屋根へ一足飛びで登る。

 

「うおっらぁ!!」

 

 かけ声と共に繭がほうかいし、中からイノリが破り出てくる。

 体中に巻かれたれ包帯を千切っては投げ、ざんがいを周囲にばらく。

 まるで紙で遊ぶ子供のような姿だが、のどにはうすあとが残っていた。

 

「ふーん。属性型どう具か。つうすぎるな」

じゅじゅつ型よりはまともなだけさ」

 

 フィガロが立っている屋根の向かい側に、じょぼうをかぶった子供がせしていた。

 みぎうでには力が入っていない様子でれており、左手だけで帽子のツバをつかんでいる。

 元から古ぼけていた服だったが、今はほこりまみれだ。頭から血を流しており、きんぱつよごしていた。

 

「クロート!」

「待ってて。今からこいつは」

 

 すいしょうだまが二つ、クロートの体を中心にせんかいする。

 そのはばだいに大きくなり、速度は目で追えるものではなくなった。

 青白い火花が散り、赤い空との対比が目に痛い。増えていく火花を前に、フィガロが好戦的なみをかべる。

 

だ、クロート!」

「は? なにを」

 

 言葉をさえぎられたクロートが見下ろした先に、血に濡れて気絶した包帯男。

 背中に十六号と書かれ、体の半分近くが赤くなっていた。

 

「……」

 

 失血量がひどい。助かるみは薄く、フィガロはりょうすきを待ってくれない。

 善意につけわなだ。けれど見捨てたところで、クロートは構わなかった。

 しかし黒いひとみに見つめられると、その決断がにぶってしまう。

 

「イノリ、悪いけど」

おれがそいつをぶっ飛ばすから!」

 

 耳に届いた声は力強く、いかりに満ちていた。

 

「こいつを見捨てないでくれ!」

 

 二つの水晶玉が止まり、火花が消えた。

 帽子のツバを掴んで、位置を直しながらつぶやく。

 

「……ずるい言葉だね」

 

 笑みを浮かべ、屋根から降りることで包帯のとつかいする。

 コンクリートに着地し、イノリの横をけながら小声の伝言。

 

「魔道具をこわすんだ」

「よくわかんねぇけど、わかった」

 

 伸びてきた包帯をかわし、蜘蛛くもの巣よりも細かい路地構造を走り出すイノリ。

 その背中が曲がり角で消えるのを見届け、フィガロが屋根伝いで追いかけるのもかくにんする。

 血に濡れた包帯男――十六号は虫の息だった。いもむしの呼吸よりもか細い。

 

 二メートル強の水晶玉が現れ、十六号の大きな体をむ。

 硝子の表面にあらゆる文字が浮かび、損傷度合いの報告や呪術かいせきをクロートに伝える。

 人体操作術式に条件型発動呪術、そして一番目をいたのは肉体改造という単語。

 

ぼく、解呪って苦手なんだけどなぁ」

 

 右うでが体の動きで揺れるたびに、鈍い痛みが全身に伝わる。

 頭からの出血は止まったが、意識を保つだけで思考が乱れた。

 けれどクロートは昔を思い出しながらほほむ。十六号は「あの時のかれ」とこくしている。

 

「まあがんるか」

 

 水晶玉の解析に背を向けて、目の前に広がる光景をながめる。

 包帯で全身をかくした人体が、百以上。その全てが背中に番号を書かれていた。

 トラックに乗っていた包帯男――十九号さえも、群れの一部となっている。

 

「下手に傷つけても呪術発動。人体操作だから死体も混じっているだろうし……」

 

 じゅつやげしょうしながら、コンクリートの上にビー玉を転がす。

 その数は包帯であやつられた人体に負けず、かべれきにぶつかっては拡散した。

 ビー玉の一つに触れた人体が、とうめいな球体の中にめられる。

 

りょく比べで負けるつもりはないんでね。しょうみをめるな」

 

 人の波がおそいかかる。肉壁と硝子玉の戦いが始まった。

 

 

 

 その一方で、イノリはげ続けていた。

 見上げれば倉庫の屋根や工場のえんとつなど、夕焼け空が遠い上に小さく見える。

 頭上からとっしんしてくる包帯をけ、さってコンクリートにれつができるのをもくげきした。

 

 トラックを引き千切り、包帯男のわんりょくにもたいこうできた。

 けれど彼の走る速度はいっぱん男性と同じくらいだ。文化部所属よりも速いけれど、運動部にはしくも負ける程度。

 かんもない場所で走るのは速度低減にはくしゃをかけ、判断に迷うことが増える。

 

 屋根伝いに追いかけるフィガロは、少しだけ感心していた。

 少年の体力はきる様子がない。じんぞうではないだろうが、平然と走り続けている。

 けれどそれだけだった。頭脳を使しているわけではなく、行き当たりばったりなとうそう経路。

 

「ヒイロ研究所の残り物と思ったが、はいぶつちがいか」

 

 残念そうに息をく。けれどあきらめる理由にはならない。

 素体としてはじゅうぶんだった。あとは好きなだけ改造をほどこすだけ。

 たいきゅうりょくすでに証明されている。あの「研究所」出身ならば、当然な話だ。

 

 足を止める。伸びた包帯は、そのまま地面に突きさっている。

 あともどりできないようにするためではない。そんなちんな策は無意味だ。

 伸び続け、人間ではありえない速度で進み続ければ――先回りできる。

 

 イノリの眼前に、コンクリートの地中を突き破って現れた包帯がおどる。

 おくはないが、知識としてはチンアナゴに似ていた。長いどうたいを伸ばし、かまくびをもたげてせまってくる。

 背後には突き刺さったままの包帯。前方には飛び出た包帯。

 

 ちょうやくした先にはフィガロがゆうぜんと立っていた。

 れた片手の爪先から滲む墨が、ものを待ち構えるけものよだれのように垂れる。

 

「はい、おわ」

「ふんがぁっ!!」

 

 条件反射なのか、ただの鹿な考えなしか。

 路地を形成する倉庫の壁へととつげきし、人型の穴を開けてしんにゅう

 まっすぐすぎる判断に、フィガロは少しだけ頭痛がした。

 

 けれどすぐに気を取りなおす。倉庫などふくろこうもいいところ。

 あっという間に包帯で取り囲み、つかまえてしまえば……。

 

 どっごん。ずっごん。ごこん。

 

 さい音が遠ざかっていく。直線的にではなく、時折直角をえがいている。

 脳筋がゆえの単調な行動。壁を壊して入れるならば、同じくつで出られるのだ。

 しかも屋根の上にいるフィガロにとって、倉庫の三方向どこがかいされるかわからない。

 

 包帯を進めるのを止めて、新しい包帯を手の平に広げる。

 布地を引っ張り、紙のようになった部分に枯れた片手が字を書く。

 ついせきおよび、ばくと命令を下された包帯は、生き物のように自動的に動いた。

 

 一反綿めんというようかいのように、ひらひらと空中を泳ぐ包帯たちは倉庫の穴を追いかける。

 常にってはなれない枯れた片手が、フィガロの薄いくちびるへと近寄る。

 しわだらけの手のこういとおしそうに口づけを落とし、じゅつ師は名前を呼ぶ。

 

「安心おし、エル。私の最愛は君だ」

 

 イノリは壁を壊しながら倉庫内を通過し、段ボールには見向きもしなかった。

 背後から迫ってくる包帯は速くないが、少しでも足を止めればあっという間に追いつかれる。

 やみくもに走り続け、壁を壊してすすむ。左右を選び、角を作れば包帯の速度が少し落ちた。

 

 時折、空を見上げる。きょじんのようにそびつ煙突を見ては、舌打ちをこぼす。

 そうして走って、曲がり、穴を開けた先で――伸びた包帯が立ち入り禁止テープのように道をふさいでいた。

 一周してもどってきたことに気づく。考えなしに曲がりすぎた

 

 足が止まる。その隙をのがさず、背後から迫った包帯が足にからみついた。

 目の前にふさがる包帯もたわみ、イノリの体へと巻きついていく。

 倉庫内部と外の境目に立っていた少年は、少しずつ動きを鈍らせながらも倉庫内へと足を向けた。

 

 建物内部の障害物を利用しようと考えているのだろうか、とフィガロは少し離れた位置から観察する。

 腕力や体力、がんじょう性にはすぐれている。しかしきゃくりょくや視力など、いっぱんじんと変わらない部分が目立つ。

 彼は「未完成」だった。しかしヒイロ研究所で「完成品」が報告されたことはない。

 

 だからこそ胸が高鳴る。自らの手で、あの少年を完成させたら――。

 想像だけで下半身がうずくフィガロの目前で、トタンの屋根が壊れた。

 

「……は?」

 

 それは鉄筋や鉄板を規則的に組み合わせて接合した、いわゆる階段だった。

 チープな倉庫にさわしい、安易な作りの足場がはしを動かすかのように揺れている。

 L字型の階段の根元、掴んでまわしている少年と目が合った。

 

 そこか。

 

 口元も包帯が巻かれた少年の、聞こえるはずがない声が届いた気がした。

 逃げようと試みたフィガロだったが、それよりも先に落ちてくる階段の方が速い。

 背中をされ、屋根を転がるフィガロ。起き上がった時、血のように広がる墨を見た。

 

「エル!?」

 

 枯れた手が階段によってつぶされ、手の甲内部にまれた宝石がかがやきを失った。

 トタンの屋根を伝って伸びた墨が、ふるえながらも「よかった」という文字を残す。

 宝石が風船のようにれつし、あとかたもなくなる。同時に墨の文字もフィガロの目前で砂のように散った。

 

「ようやく屋根に登れた!」

 

 急に力を失った包帯からし、イノリががした階段を使ってがってくる。

 本当は煙突の梯子を壊して登ろうと考えていたが、手が届く高さのものが見つからなかった。

 トタンの屋根をめば、フィガロがひざをついていた。枯れた左手を、自らのれいな爪をがしながらしていた。

 

「エル……私のために、うっ……うぅ……」

 

 はちみつ色の瞳から、綺麗なしずくが落ちていく。雪よりも薄いはだをなぞり、美しい絵画のようだった。

 むなもとに動かない枯れた左手をきしめ、くずれるフィガロ。

 人間らしい一面をたりにし、イノリはこんわくからめるのをためらう。

 

「エル……エルアル……私の愛しい君……」

「それ。魔道具じゃないのか?」

 

 ためしに問いかけてみれば、ぞうに満ちた視線が刺さった。

 

「私のこいびとじょくするなっ!!」

 

 れつせいを浴び、イノリは思わずひるんでしまう。

 しゅくするイノリをよそに、フィガロは今までのおもいをする。

 

「エルアルは私の理解者だ。おだやかで、いつもやさしくしてくれた」

 

 少しパーマが残る赤いかみに、ほおかざわいいそばかす。

 コンプレックスだと苦笑するかのじょに、フィガロは微笑む。

 魔術でまっすぐな髪をあたえ、シミ一つない肌を作る。そうすると彼女は夢がかなったと喜んだ。

 

「私を愛してくれたのも、エルアルだけ」

 

 どくな魔術師にとって、それは救いのような言葉だった。

 二人で協力しあえば、どんなぼうえられると。

 

「だから――一号にしてあげたんだ」

 

 永遠のぼうを手に入れた彼女の体を切り刻み、えた。

 どんな傷もいっしゅんで治り、手が足になっても生活に支障はない。

 あらゆる苦痛にえる彼女は、魔術師が微笑めば笑い返した。

 

 心臓をかいぼうしても生きていたはずなのに。

 脳を一本のひもじょうにしても計算ができていたのに。

 眼球だけを旅行に連れて行っても、風景は記憶したのに。

 

 魔術師には原因がわからなかった。寿じゅみょうむかえるには、まだ早いのに。

 二十四さいという若さで、彼女は手の届かない場所へ旅立ってしまった。

 肉体があった。脳が残っていた。記憶を再現して、人格もどきを作る。

 

 すると変わらず彼女は愛してくれた。

 けんしんてきに魔術師に寄り添い、残った体全てでほうしてくれた。

 たましいはまだ学問で証明できない。けれど最強の体を作り上げた先で、わかるはず。

 

 いつかめいの死神からでも、彼女の魂をもどしてみせる。

 そのために実験体はいくらでも必要だった。

 

「あと少しで、エルアルを……」

 

 記憶をなくしても、わかる。

 どちくしょうどうが目の前にいて、心の底から泣いている。

 

「なのに貴様が! エルを潰すから!」

りんって言葉を学べ!」

 

 なっとくいかない怒りを向けられて、さすがにイノリも言い返す。

 幸運にも文字を操る魔道具を壊せたかと思い、一発はなぐろうと心に決めて近寄ろうとした。

 

 しかしフィガロのなみだを優しくぬぐう指があった。

 それは右手の人差し指。手首より先は消えた、もう一つの片手。

 エルはあいしょうなどではなかった。辿たどいた答えにがする。

 

 魔術師は愛しい女の「名前」さえも――解剖した。

 

「貴様は許さない」

 

 左手と同じ水分を失った黄色の皮膚に、緑色の黴がこびりついていた。

 けれど爪だけは白く綺麗で、まるで暖かい海のすなはまのようだった。

 爪先から滲むむらさきいろの液体を、形の美しい赤い舌で舐めとるフィガロ。

 

 ぼこっ、と細い肉体が盛り上がった。白衣がはち切れ、包帯だけの姿。

 筋肉が風船のようにふくらみ、血流の速さに皮膚が赤黒く変色していく。

 美しいエルフの姿など残らなかった。筋肉のかたまりとなった魔術師が腕を振るう。

 

 イノリの体がゴルフボールのようだった。飛んだ体が、工場の煙突にぶつかる。

 しょうげきが殺しきれず、煙突に亀裂が入る。体がかえることもなく、分厚い壁にりついた。

 体が自然と大の字になる中、トタンの屋根を壊しながら跳躍したフィガロが右手の爪先をすする。

 

 秒でエネルギーをじゅうてんする飲食品のように、紫色の液体をむ。

 赤黒い体が二倍、三倍と肥大する。同じ倍率で膨れたこぶしで、動けない少年の体を無差別に殴る。

 腹も、顔も、足も。全てをふんさいする勢いで、殴り続ける。それを空中に浮いたしゅんかんてきな時間だけで行う。

 

 煙突が耐えきれずに亀裂を広げ、せんたんが折れてくずれた。

 最後のいちげきで煙突といっしょなぐばされ、イノリは地面へ落ちていく。

 折れた煙突の上に着地し、少年が落下した先をにらむ。

 

 ゴリラのように背を丸め、足と手を使ってすわむ姿。

 その全長は五メートルをえ、美しかったぎんぱつは全てちていた。

 赤黒い皮膚には血管の筋が盛り上がり、血流の動きに合わせて脈動していた。

 

 かろうじて人体の姿を保っているが、もはやヒューマンタイプにしばられない。

 肉圧で飛び出た目玉がぎょろりと動く。じゅうけつした目からは、赤い血が流れる。

 肉体の限界近くまで増強薬をみ、血管が破れた。それでもフィガロは構わなかった。

 

 頭の中に愛しい女の姿はなく、ただ破壊しょうどうだけが体を動かす。

 右手の「アル」の爪先から液体が出ないとわかれば、それをくだいてしまう。

 手の甲にめられていた宝石が歯で粉砕され、皺だらけの指先がなにかをうったえるように震えたが、すぐに動かなくなった。

 

 煙突の中に右手を捨て、化け物は壊れた足場をる。

 だんがんのように少年へと突撃する。五メートル大の体で圧死を。

 

「お前」

 

 立ち上がった少年はよろめいたが、近くに落ちていた煙突のへんを拾う。

 大きな土管のようで、大人一人はゆうに入るだろう。それを難なく持ち上げ、力任せに投げる。

 直立姿勢で飛んでいたフィガロの体が、煙突の破片をもぐり――けなかった。

 

 きょだいした体をけるコルセットのように、煙突の破片がまってしまった。

 受け身も取れずに地面へとぶつかる。コンクリートに大きな穴が開いたが、足の筋肉だけで立ち上がる。

 腕に力を入れれば、煙突の破片に亀裂が生じた。あと少しで壊せるという段階で。

 

「だからムカつくんだな」

 

 黒い瞳にあったはずの温情はなく、今はただ「敵」を見ていた。

 愛しいと語った女の全てを解剖して、利用価値がなくなれば捨ててしまう。

 美しかった化け物が、ゆがんだ愛によって本当のかいぶつへとへんぼうした。

 

 せめて右手を最後まで守っていれば。

 しかし魔術師に寄り添う両手は、もうどこにもない。

 

「ッガ、ア、アアアアア!!」

 

 もう言葉も忘れたフィガロが、煙突を内側からくだいた。

 飛んできた欠片を拳で殴り落とし、化け物へと一歩す。

 同じように敵も腕をげ、拳をす。

 

 男子高校生の拳と、五メートル大の化け物の拳がげきとつする。

 少年の拳など赤子のように小さく見えるほど、化け物の手は大きい。

 砂場でもないのに、コンクリートの地面にくつが引きずったくぼみができる。

 

「アアアア!!」

「……っ!」

 

 盛り上がった血管から血をしながら、化け物がほうこうを上げる。

 押し負けてイノリの膝が曲がる。けれど震える膝裏を少しずつ伸ばしていく。

 

「っ、俺は」

 

 咆哮にかき消されるような声で、少年は呟く。

 記憶をなくして、ここまでやってきた。わからないことばかりで、保護者と名乗るのは子供みたいなクロートだ。

 もしかして、本当は。少しだけ疑ったのはいなめない。

 

「愛とかよくわかんねぇけど」

 

 もう片方の拳が迫ってくる。それを空いている手の平で受け止めるが、あごしたから膝が突き上がる。

 頭がのけ反る。常人であればばされるりょくを、少年は顔の原形を保ちながら痛みを覚えた。

 しかし突き出した拳だけは動かない。全力を、そこへ込める。

 

「記憶がなくてもわかる!」

 

 化け物が突き出している腕のひじが、曲がった。

 赤子のような小さな手にかえされた事実を、魔術師はもうにんしきできない。

 曲がった肘から骨がて、腕が潰れた。化け物がぜっきょうを上げる。

 

「お前は間違ってる!」

 

 化け物の潰れた腕をはらい、もう一度拳をにぎりしめる。

 痛みに暴れるフィガロには、ぼうぎょこうげきする意思も残っていない。

 膨れた肉団子のような顔に向かって、小さな拳がまっすぐ進む。

 

「だから、ここでたおれろ! 魔術師フィガロ!!」

 

 分厚い肉におおわれた頬に拳がえぐり込み、骨へと衝撃を伝える。

 蜂蜜色の瞳がぐるりと裏返り、充血したしろが現れる。フィガロは、その状態でも腕を動かした。

 なにかを探すように空中をさまったが、体がコンクリートの地面に倒れると停止した。

 

 何度も息を吸って吐く。そうやって呼吸を整えるイノリは、少しだけ考える。

 クロートを待たせてしまうが、わずかな寄り道。壊れた煙突の直下と、足場がぶつかった屋根へと走る。

 腕にかかえたものを倒れた化け物の胸元に置き、静かに両手を合わせる。

 

「愛とかよくわからねぇからさ、これが正しいのかもみょうだけど」

 

 男の胸に寄り添う枯れた両手。それが動くことはない。

 手の甲に埋め込まれた宝石は粉々で、手自体の損傷も激しかった。

 

「こいつと一緒にいるのが、アンタの幸せであることをいのるよ。エルアルさん」

 

 一礼し、イノリは壊れた道を辿たどりながらクロートの所へ向かう。

 そして見下ろす幼女は笑う。彼女の指がつまむのは、ステンドグラスのように綺麗なピンポン球だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る