Lighthouse 船出2
@Myzca
Lighthouse
俺が怖いという気持ちを夜の海深くに沈めた話をしよう。 あれは俺がまだ小さくて、親父こと旗艦長達が俺の事をチヤホヤとマスコットと言うよりは、腫れ物扱いしていた頃の事だ。 危険時に俺の身代わりになる為に船に乗ったエゼキェルと俺は旗艦でも最年少で、若い水兵の真似をして遊び半分で競い合っていた。 艦内一番の『赤ん坊』の立ち位置は完全なる男社会の艦では不名誉で、特にエゼは何かにつけて俺をそう呼ぶ機会を逃さなかった。 剣術も体術も取っ組み合いの喧嘩も嫌いだったけど、子供の目には艦での男達はそれで評価されているように見えたし、若い新米水兵でも大抵10代の初めか半ばで、それより更に小さかった子供の目には彼らは充分に大人の男たちだった。
勉強時間の合間に、親父達の目を盗んでエゼキェルと遊び始めると、大抵途中から競争や勝ち負けのある争い事になって、喧嘩で終わる繰り返しだった。 周りは特に俺たちを比べるわけでは無かったけれど、エゼは何時も声高に勝利宣言をしたから、周りの目には俺は何時も負けた側だった。
それでも良かった。 親父達は何故か俺には何も出来ないだろうとはなから決めてかかっている感じがあったし、俺が怪我をしないようとても気を遣っていた。 俺に擦り傷でも作ろうものならエゼは水夫長に殴られていたから、逆に余程彼の方に分が悪い話だ。 それはまだ艦の乗務員が俺を男扱いすると決める随分前だったらしくて、母であるヴァルドゥ領主から俺を託されて親父達も試行錯誤している最中だったのだろう。
俺は毎日、負け続けた。
剣術でも負けたし、
武術でも負けたし、
喧嘩もで負けたし、
取っ組み合いもやっただけ負けた。
負けて泣けば親父が俺を庇ってエゼを叱るから、逆にその腹いせで彼からの揶揄いが酷くなる。 あの頃、俺はよく泣いていた。 でも艦には涙を拭いてくれる幼馴染のリリアも居ないし、泣き止まないなら、またそれで揶揄われる。 部屋に篭って本でも読んでいる方がよっぽど好きだったけど、だが実はそう思っている自分が一番嫌だった。
船は好きだけど嫌いでもある。 行きたいところに行けるように見えるが結局は軍港から軍港へ、戦いから次の戦いへ、家族でも友達でもない者達との生活だ。 最低限の世話はしてくれるが、屋敷にいる時のようなものは全く期待出来ないし、自分の面倒は自分でみるのが最善だと言われるまでもなく学んだのもこの頃だ。 ひとりで出来るに越した事はない。
そして自由な訳ではない。 広がる海の上では点に過ぎない小さな艦の上という閉ざされた空間の閉塞感が漂い、何処かに行きたくても、温室や図書室やティールームやサンルームや公園があるわけでもない。 こういう点では、少しだけ妹のエイダに嫉妬する。 ヴァルドゥの屋敷で見る彼女の生活は気儘で平和に見えるからだ。 でも考えると彼女の立場も同じようなものだ。 出掛けるには常に許可を得て同行者をつけなければいけないし、他の令嬢達との競い合いもあるのだろう。 まぁ、自由だ自由だと声高に言う者ほど、実は制限の多い環境の下にいるものだし、自由に影のようについて回る責任っていうものもあるから、そんなものだろう。 俺が何で男扱いで艦に乗せられたのかは何度も母と話したけれど、まあ、コレが当時のヴァルドゥと俺にとっての最善策だったのは理解出来るから文句は言わないことに決めた。
それにしても、エゼキェルが羨ましい。 俺と比べて何でも楽々こなす。 だがその視線の反対側で、実はエゼキェルも俺を羨ましく思っていた事など当時の俺は知らなかった。
俺は何時も親父達にチヤホヤと可愛がられて、一番の赤ん坊のくせに艦橋に個室があって、他の乗務員とは別の美味しい食事を食べて、質の良い誂えられた服を着て、剣術でも勉強でも専門の教師が付いているのだ。 子供に身分の違いは分かりにくいコンセプトだ。 よく似ている上にあの頃は大抵何時も一緒に居て、更に勝ち続けている方から見るとおかしな話で、彼が納得出来ないことも多かっただろうと思う。 面白さと楽しさ半分、だがしかし危険時には身代わりになる役だというのは、割に合わない不公平感がある。 後で聞いた話では、俺を友達だと好いていたのと同時に、エゼキェルも俺に嫉妬、そして自分の立場に苛立ちを感じていた。 子供のエゼキェルには俺を負かして泣かせる位しか、俺の身代わり以外の彼自身の存在を周りに示す手立てが無かったのかも知れない。
エゼキェルの自己主張の手立ては尽きる事無くどんどんエスカレートしていった。 例えば、新米水夫の男試しのメニューだ。 潜って艦底を廻って艦の反対側へ出る、甲板のブルワークの上を歩く等、大の男でも怖くて出来ない事で競い合う。 その多くは子供には体格的に危険な事もあって、親父達にはっきりと止められていた。 でも簡単なものは何でもエゼキェルの競争道具になり、やはり俺は負け続けていた。 エゼにだって中には苦手なものもあっただろう。 でも当時の彼は俺に勝ちたい一心の方が強くて、震えながらもロープを登ってみたり、下層階の暗い貯蔵庫にネズミ退治に行ってみたりしていた。
そんな頃の話だ。 ヴァルドゥから見てラスイスラス海の西、オイステ諸島を中心に荒らしていた海賊団が近海まで勢力を広げてきた為、ヴァルドゥ艦隊が出ていくことになった。 あの頃は親父が全艦隊を指揮していて、ヴァルドゥ艦の仕事と存在意義が理解出来るようになったのはもうちょっと後だったから、俺はお飾りにもならない程度だった。
親父の指揮下では、当時お子様な俺が乗った旗艦が戦闘に加わるのは問題外だったから、旗艦は戦闘海域から距離を開けて砲撃戦やその後を指揮しながら見ているだけだった。 だから俺には何が起こっているのか何が行われているのか全然理解出来なくて、分かった事は、長時間の砲撃戦と他艦による白兵戦の後ヴァルドゥ艦隊が勝った事と、海賊の首領を拿捕した事だけだった。
捕まったのは赤毛の女海賊だった。 海賊の首領が女だというのにも驚いたが、女が船に乗って一団を率いているというのが子供心にも不思議な気がした。 船の上は完全な男社会でなくてはいけないと思い込んでいたからだ。 色々な疑問が噴き出し、自分の考えを確かめたくなり夜遅く、人気も見張りも最小限の時を狙って甲板に会いに行った。
海賊を間近で見たのも会ったのも初めてだった。 赤い髪が日に焼けた顔の周りで蛇のようにとぐろを巻き、肩から手の甲までびっしりと彫られた刺青が、夜目のうえ子供だった俺にはまるでレースの袖のように見えた。 それはまるで兄のジオが読んでくれた本に出てくる魔女のようで、荒い息遣いの下で呪文でも唱えているのかと思った程だった。 旗艦の甲板の二重になった檻の中でうずくまっていた彼女は既に手負いで戦う気力も残っていないようだったが、その瞳の光だけがまるで灯台のように真っ直ぐに俺の瞳を射抜いてくる。 俺はありったけの勇気を振り絞って訊いたつもりだったけど、出てきた声は後で思い出しても笑える位、か細く震えていた。
「本当に怖いものって、何?」
聞いてみたい事は山ほどあったが、口から出たのはコレだけだった。 夜中にいきなり現れた子供からの妙な質問に女海賊は眼を上げてじっくりと俺の佇まいを見た。
「よく見りゃあんた、嬢ちゃんなんだね。 見習いかい?」
彼女は嘲るように一瞬笑いを浮かべたが、俺の様子を見て次第に質問の意味を考える顔になった。 そして何か分かったかのような顔になり、何か懐かしいものを見るような目になった。
「なるほどね。 あんたは私の小さい時にそっくりだ」
ぎらついた雰囲気を一転させると、彼女はエズミと名乗って、俺の名を尋ねた。
「嬢ちゃん、あんたの名前は何だい」
消え入るような声で名前を教えると、彼女は俺の名を意外な程優しい声で反芻し、それはどこかの外国語の歌のように響いた。 最後にゆっくりと俺の名を呼んで、質問に答える。
「イオ、実際に怖がるべきモノなのか、ただ単に自分の弱さがそれを怖いと思わせているのか、しっかりと見極めないと。 だから私が本当に怖いものは、怖いと決めてかかる自分の心だね」
粗野だが力強い瞳で真っ直ぐに見つめられて、それまで心の中に重く黒々と染み付いていたものが炙り出されたかのような気がした。 其れは、俺の弱い心。
翌日、艦はヴァルドゥの軍港に着き、その後エズミを見る事はなかった。 軍港には法務部の役人が引取に来ていたし、海賊の行く末はひとつだけだったから。 もっと大きくなってから話してみたい事は沢山あったが、叶わぬ事だし、そんなものだ。
エズミと会ってからしばらくの後、あれは暗い新月の穏やかな夜で、艦は沖合で錨を降ろして朝を待っていた時だった。 俺は物音を立てないように静かに部屋を出て、後で登れるように甲板からロープをそっと降ろして、メインデッキを進んで行く。 まだ夜明け前の真っ暗な闇の中の見慣れている筈の甲板が何時もと違って不気味に見えてくる。 何時もだったら怖くなって部屋に逃げ帰るところだが、その晩は違った。 甲板の中央部からメインマストに付いているシュラウドを登り始めると何だか面白くなってきた。 もう引き返せない決心と、ワクワクする冒険心と、クラクラと目眩がするような楽しい恐怖。 多分エゼが何時も感じている気分なのだろうが、こっちの方が何倍も危険な遊びだ。 シュラウドから一番低い帆まで上がった事は何度もあったが、そこから上はまだ親父に止められていた。 新米水兵でもなかなか一番上まで上がれる奴は居ない、その天辺は最強の新米水兵男試しアイテムだ。
マストに登って『鴉の巣』と呼ばれる見張り台まで到達すると、驚いた見張りの水夫が俺を捕まえて制止しようとした。 彼は結局、落ちたら危険だと判断してそれを諦め、マストを降りて走って親父に知らせに行った。 彼が親父にたどり着いて知らせる前に、俺はひとりひっそりとそして黙々とメインマストの上まで登り、更にマストからのびる中でも一番高いヤードを着々と横へ横へと、その先端のヤードアーム目指して進んで行く。 下を見ると灯りもなくまだ人気のない甲板がとても小さく見えた。 怖いと思っていた。 怖いと決めてかかって何でも泣いて避けてきた、小さく頼りなげな自分の姿を眼下の甲板の上に探す。 ヤードの端に辿り着き、顔を上げて水平線を見ると、手が届きそうな近くに星がまだまだ瞬いているのが見え、その下に遠く黒々と底無しの暗がりが広がる。 そこにエズミの瞳を見た気がした。
甲板のブルワークから飛び込むのと同じようにヤードの端を思い切りよく蹴って飛ぶ。 耳の横で風の唸る音がきこえたような気がし、どちらも暗い色の空と海が反転する。 ゆらゆらと広がる黒い水面がぐんぐん近づき、その中に小さな自分の身体がまるで矢のように、めり込んで行くように一気に深く、深く沈んでいく。 水に抱き締められているかのように水圧が一気にかかり身体を捻って頭を上にすると、目の前に船底の影と足下に底なしの暗闇と静寂が広がるのが見える。 感じたのは恐怖よりも恐ろしいまでに美しいものへの賞賛と畏怖だった。 それから泡が上がる方向を確かめて頭を上げ、ゆっくりと水を蹴り出し水面を目指した。 ゆるゆると自分の吐いた息の泡に先導されながら上がって行き水面に顔を出すと、艦からボートが降りてくるのがみえた。 艦上に灯りがついて慌ただしさを増し、甲板から水面を覗き込む顔が並び、ボートから知った人達の怒鳴り声が海面に響きわたる。
「エゼ! 俺の勝ちだな!」
親父に張り倒されたのは、後にも先にもこの時だけだったが、泣かなかった。 びしょ濡れのまま乗組員全員の面前で怒鳴られたけど、エゼを見返した嬉しさと自分の恐怖心に勝った嬉しさで一杯だった。 清々しい達成感の方が先で皆に悪いと思った気持ちはその次だった。 張り倒された頬は痛かったけど、心配をかけた事は理解できたし、そしてまた何度でもやってやるつもりでいた。 あの時はそういう眼で見返していたのだろうだろう。 怒るだけ怒った後、親父がぎゅっと抱きしめて、小さい声でよくやったと言ってくれたのが意外で嬉しかったのを覚えている。 後で水夫長がこっそりとメインマスト達成記念のお祝いをしてくれたっけ。 あの時を境に、自分も含めて艦全員の俺への態度が変わったのをはっきりと感じ、旗艦での腫れ物扱いが止まって、『赤ん坊』でなくなったのもこの頃だ。
そうこうしているうちに、何かに気付いたのか妙に色気づいたエゼの俺への態度が変わってきて、彼は他艦へ飛ばされてしまい、旗艦の人事も変わって新米水兵や若い士官は他艦配属になった様子だった。 親父も次第に俺に統括指揮の指導をする様になり、船や海戦について専門的に学ぶことも多くなっていった。
あの時あった、闇雲な不安や掴みどころの無い恐怖がゆらゆらと海の底から帰ってきたのは、つい最近の事だ。 そんな時は夜明け前の暗闇の中、メインマスト上の見張りに挨拶がてらヤードの端からの黒い海を見に行く。 魚も眠る夜の海の暗い波間の何処かにあるはずの、あの時のエズミの瞳を探す為に。 夜の海から見た灯台のような、あの瞳を。 あの歌うように繰り返した俺の名の響きを。 そして朝焼けの空が薔薇色に染まる頃、海がまたいつも通りの見知った青い色になってゆくのを待って、俺はゆっくりとマストを降りる。
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