第22話ー② 冬来りなば……


 帝都旧市街 ファボリテン通り

 パブ・タンネンベルク


 創業二四〇年、建物自体はウィーンが帝都ととされる以前からという老舗のパブは、残り少ない帝国暦五八九年の夜を楽しもうと雑多な人々で溢れかえっていたのだが、その中には斉藤とソフィがいた。彼らはホテルのレストランでディナーを済ませた後、さらに飲み直そうと旧市街に繰り出していた。


「それじゃ、今年の仕事の諸々に」

「「乾杯」」

「さっきもしたじゃないか」

「乾杯は何度やってもいいって、カミンスキーさんが言ってたし」

「アル中の意見だろ、それ」


 斉藤の返事は普段通りにべもないが、酒も入って適度に柔らかみのあるものだった。


「うふふふ……」

「どうしたの? 突然笑い出して」

「斉藤君が入ってきた日のことを思い出してたの」

「僕が?」

「そう。部屋に執行拳銃届けに行ったでしょ?」

「あー……あったね、そんなことも」


 今となっては遠い日の記憶を呼び起こした斉藤は、ソフィに苦笑いを返した。


「ふふっ、あのときの斉藤君、目をまんまるにして驚いてたんだよ?」

「そうかな……」

「そうだよ」


 そうまで言われては、斉藤としても言い返すことはなかった。


「しかしまあ……随分色々あったけど、ソフィが声を掛けてくれたの、結構感謝してるんだよ」

「ふふ、先輩を敬いたまえー」

「はいはい、感謝してますよ」

「あっ、なんか適当だなー、その対応」


 雑然としたパブの中、斉藤達のようにいちゃつく若者もいれば、それに生暖かい目線を向ける者も居た。


「……いやあ、出にくくなっちゃったね、こりゃ」


 店内奥のボックス席に座っていた永田は、満面の笑みを浮かべながらカウンター席のほうを見ていた。例年通りレストラン下田でのささやかな忘年会の二次会で訪れたパブだったが、まさか若手のホープが入ってきて良い雰囲気になるなどとは永田も予想していなかった。


「どうするんだい永田。気付かれないように裏口でも使わせて貰おうか?」


 ウイスキーの入ったロックグラスを傾けながら、笹岡はまだまだ飲むつもりでいた。ここで撤退するなど考えはない。むしろ相手が気付いていないのをいいことに観戦する気満々だった。


「もう少し飲んで行こうよ。お互い最後の帝都見物かも知れないんだから」

「ま、いつでも後ろから撃ち抜かれる可能性はあるだろうしね」

「呆れた……もう少し日頃の行いを恥じるかと思えば」


 四杯目のビールに口を付けたミレーヌは、心底呆れたという顔でジョッキを煽った。


「僕らはまっとうな国家公務員だよ? どこに恥じるところがあるんだい?」

「どのツラ下げて言うんだか……」

「しかしどうだい総務部長。若い二人の前途を祝して一つ乾杯と行こうじゃないか」

「調子が良いんだから……」


 一方、永田達が自分達を酒の肴にメートルを上げはじめたのも知らず、斉藤とソフィは談笑し続けていた。

 

「ねえ斉藤君。後悔してないの?」

「なにを?」

「特別徴税局に来たこと。斉藤君の仕事を見てれば分かるよ。斉藤君、本省でだってもっと活躍できる人だって……私なんかが言っても、説得力ないかもだけど」

「……」


 大臣室で言われた言葉を斉藤は思い返した。もし、永田の所業を詳細に報告することで本省に行けるのなら――と。


「……さあ、どうだろう。仮定の話だけど、酒が入っちゃって考えがまとまらないな」


 キャリアを求めるだけなら、それも確かに一つの選択肢だった。しかし、無論、斉藤自身が良く分かっている。そんなことが出来るはずがない、と。


「……それに、僕がここまでやってこれたのはさ、アルヴィンさんやハンナさん、ロードや、ソフィ達局員皆のおかげさ。本省に行って同じだけ働けるかは、自信がないな」

「斉藤君にしては、控えめな発言だね」

「僕がいつも尊大だと?」

「そんなことないよ」

「……それならよかった」


 しかし、楽しい時間というのはあっというまに過ぎるもので、時計の針が午後一一時を回る頃、すっかりソフィはアルコールが回っていた。


「ん~♪ さいとーくんもーいっけん、もーいっけんいこー♪」

「ソフィ……!」

「んぅ……」

「ほら! タクシー来たから乗って!」


 自動運転のタクシーを捕まえてホテルまでたどり着いたはいいものの、ここで問題が発生した。



 ホテル・ベルヴェデーレ

 斉藤の部屋


「まったく……ほらソフィ立って。もう少しだから!」


 斉藤自身酔っていたこともあり、普段なら考えつくだろうごく簡単なことを思い付かずにいた。


 同じホテルに泊っていて、彼女の身分証などもカバンを漁れば出てくるだろう。フロントにソフィ・テイラーの部屋はどこですか? と聞けばよかったのだ。


 しかし、彼の明晰な頭脳もアルコールという人類長年の悪友と外出中だった。フロントを通り過ぎてエレベータに乗り、客室へと向かう。


「……よいしょ……っと」


 自分より上背のあるソフィとはいえ、斉藤とて成人男性。それなりの力はあったし、ソフィ自身も完全に自立が不可能というわけでもない。千鳥足を支えながらたどり着いたのは、斉藤が宿泊する部屋だった。


 ダブルベッドにどうにかソフィを横たえさせた斉藤は、息も絶え絶えにその場に座り込んだ。


「はぁ……はぁ……ど、どうするかな、これ」


 真冬のウィーン市街を歩いてきたというのに、斉藤のワイシャツは汗でベトベトになっていた。ネクタイを緩めて放り、不愉快な湿気を含んだシャツを脱ぎ捨て、据え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んだところで、急激に酔いが醒めていくのを感じた。ここに来て、斉藤は自身の判断ミスに気がついた。


「フロントに聞けば良かったじゃないか……!」


 しかし、ここでもう一つの不安が斉藤の脳裏をよぎった。現時点で自分は酔い潰れた女性の同僚を部屋に連れ込んでいる。着衣は乱れて息も荒い。こんな状態を他人が見たら、少なくともホテルの従業員や宿泊客はどう思うだろう、と。


 酔い潰して婦女暴行の挙げ句に居室に戻して放置? 下手すれば警察を呼ばれても不思議ではない事案だ。無論、理路整然と経過を説明すればいいのだろうが。


 アルコール解毒剤、俗に酔い覚ましを放り込んで強制的に目覚めさせるのも手だったが、生憎普段斉藤は酔い覚ましを使わないことにしていて手持ちがなかった。そもそも酔い覚ましが効いたあとの不快感を考えれば、勝手に飲ませるのも気が引けた。


「しばらく寝かせとくか」


 斉藤はこの場で取れる一番常識的な考えに至った。ソフィは酔い潰れはするが潰れる前の記憶が消えるタイプではない。事情を話せば理解してくれる、と。


「シャワーでも浴びて寝るか……」


 斉藤はとりあえず、汗を流してから寝ることにして、バスルームへと向かった。


「……あえ?」


 斉藤がバスルームに入った直後、ソフィは覚醒した。未だ酒が残っていてフワフワとした思考ながら、斉藤と飲んだことまでは覚えていたし、覚束ない足取りでホテルまで戻ったことも覚えている。


 しかし、ここが斉藤の部屋である、という一点が抜けていた。斉藤の部屋とソフィが宿泊する部屋は、どちらも同じグレード、同じ間取り。ソフィがここを自室と勘違いするのも無理はなかった。斉藤が脱ぎ捨てていたネクタイやワイシャツを見ていれば、少しは状況が変わっただろうが、酔っ払いにそれを要求するのは少々荷が重い。


「んん……トイレ……」


 ソフィはフラフラとバスルームへと向かう。ホテルにありがちなシャワーブースとトイレがセットになった間取りだったのが、このあとの喜劇の原因になる。


「あっ」「え?」


 ドアを開いた直後、ソフィは思いもよらないものを見た。半裸の斉藤は自分の迂闊さ――鍵くらい閉めておけばよかった――を悔やんだ。


「きゃーーーーーーっ!!!!!」


 とっさの防衛行動だった。ソフィはバスルーム入ってすぐの棚に置かれていた石鹸を手に取り、投げた。


「あがっ」


 コツーンと言う小気味のいい音と共に斉藤の額に命中したそれはカタンコトンとバスルームの床に落ち、半分に割れた。同時に斉藤が崩れ落ちる。クリティカルヒットと言うべきだった。


「斉藤君! ごめっ、そんな! 斉藤君しっかりして~!」


 

 ハンナの部屋


「悲鳴? いや、気のせい……かな?」


 奇しくも徴税三課における斉藤の上司であり、徴税特課における斉藤の部下でもあるハンナ・エイケナールもホテル・ベルヴェデーレに宿を取っていた。下着姿のまま執行拳銃を用意まではしたが、ホルスターから取り出して机に置くに留めた。


「はぁ……こんなことならアルヴィンでもいいから連れ出せばよかった……いやアイツはダメか。さすがに帝都は……」


 彼女は決して聖人君子ではない。アルヴィンほどではないにしても、一夜の火遊びをするくらいのを持っていた。しかし、帝都の男は彼女のお眼鏡には適わなかったらしく、近くの専門店で買い込んできたワインをボトルのまま飲み明かすことに時間を費やしていた。


「寂しい……明日はロンドンにでも行くか……」


 些か酒量が過ぎてきた、と自覚したハンナは、すべての思案を翌朝に回すことにして、早々とベッドに潜り込んだ。



 帝都

 旧市街


「じゃあ永田、また年明けに」

「うん、笹岡君、よいお年を~」

「無事再会できるように祈ってます」

「あはは、そだね~。ミレーヌ君も気をつけて」


 斉藤達がパブを退店してからたっぷり一時間は経ってから、永田達は店を出た。三人とも帝都の公務員宿舎を借りているわけでもないので、各々が宿泊するホテルへと向かう。永田達にしても、普段カール・マルクスに詰めているのだからたまにはホテルの快適な部屋で寝たい、というのが本心だった。


「斉藤君達、いい感じにしけ込んでくれたかなあ」


 ぽつりと呟いた永田は些か下世話な妄想をしていた。男女交際、局内恋愛大いに結構などとニヤけながら。本人達が、いや先ほどまで飲んでいた笹岡やミレーヌが聞けば小言の一つくらい飛ばしてくるだろうが、今や永田一人。一二月三〇日の帝都、それも旧市街のベルヴェデーレ宮殿周辺というのは人通りが少ない。何せ開いている店がないのだから。


 永田はパブから歩いて二〇分ほどのホテル・ベルヴェデーレに部屋を取っていた。奇しくも斉藤達と同じホテルだ。タクシーを使うことも考えたが、永田は珍しく徒歩を選んだ。


「……ダールマさんがこーろーんだ……ってね」


 通り過ぎた曲がり角に止まっていた商用バンから、何人かのスーツ姿の男が降りて、永田の後ろに付いた。年末だというのに職務熱心だ……と永田は感心していた。


「おっと……」


 いつもの尾行なら巻けるだろう、と永田は裏通りに進路を変えたが、これが運の尽きだった。


「永田閃十郞だな」


 いかにも、という風体の男が永田の前に現れた。どこにでも居そうな背広にコート姿。マフラーを巻いた男は永田ににじり寄る。


「ファンの方ですか? あいにくサインはしない主義なんですがねえ」


 へらへらと笑いながら、永田はポケットに手を突っ込んだまま突っ立っている。


「……」


 男はコートの胸ポケットから、黒い塊を取り出した。言うまでもなく拳銃だ。


「いやしくも帝都で殺しをやるだなんて、内国公安局も落ちたもんですなあ」


 永田が出した組織名を聞いても、男は微動だにしなかったが、それこそが答えでもあった。


「……」


 男は答えず、そのまま永田にサイレンサー付き拳銃の銃口を押しつけ、引き金に手を掛けた。



 ホテル・ベルヴェデーレ

 斉藤の部屋


「う……ん……んん……!?」


 斉藤は額の痛みに目を覚まし、起き上がろうとした。額に載せられた濡れたタオルがボトッと自分の胸の上に落ちた。


「ソフィ……?」


 斉藤の記憶の最後は、自分に向かって飛んできた石鹸で途切れていた。ソファに窮屈そうに身をかがめて寝転んでいるソフィを見て、斉藤の記憶はようやく整合性を取り戻すことになった。


「ご、ごめんなさい、斉藤君……私がボーッとしていたばっかりに」

「いや、こっちも迂闊だったよ……あの、ところでさ、なんでずっと背を向けてるの?」

「さ、斉藤君、上、裸……」

「あっ……!?」


 斉藤は慌てて備え付けのバスローブを羽織った。それと時を同じくして外していた端末が短い通知音を鳴らした。


「なんだ……? 帝都にいる局員への、身辺の安全確保指示?」

「たまにあるんだよね……また局長が襲撃を受けたのかな」


 ソフィもふにゃふにゃとした様子で同じ文面を見ていた。


「特別徴税局ってだけで内務省辺りが張り付くらしいし……」

「そ、そういえばレストランで食事してるときも、私のあとを付いてきてる男の人がいて……」

「そういえば、パブからの帰り道の途中にも、変な一団がいたな……」


 ソフィを連れていくことに気を取られていたから無視したが、あの時間帯とは思えないほど斉藤の行く手には人が居た。


「じゃ、じゃあ私、部屋に戻るから。気をつけてね」

「うん。お休みソフィ」


 そう言い残して出て行こうとしたソフィだが、部屋を出ようとしたところで足を止め、引き返してきた。


「どうしたの?」

「エレベーターのところ、誰かがこっちを見てるの……」

「こっちを?」


 斉藤が変わってドアを少し開いてエレベーターホールを見るが、やはりそれとなくこちらに目を向けている男が、素知らぬ風を装って立っている。こんな夜更けエレベーターホールで人を待っているわけでもあるまい……と、斉藤は反対側の通路に顔を出した。


「……」


 エレベーターと反対側の通路も、深夜だというのにやけに人通りがあったのを確認して、斉藤は扉をそっと閉め、ロックがかかったことを確認した上で、さらにドアチェーンを掛けた。


「いた……」

「でしょう?」

「うん……警察? いや内務省?」

「……あのまま行ってたらどうなってたのかな」


 ソフィが不安げにドアの方を見た。斉藤は内務省という組織の体質を考えながら、先ほどの通達の文面を見直す。


「まさかそんな手荒なことはしないと思うけど……僕ら、下っ端じゃないか」


 そうは言いつつ、斉藤は念の為に執行拳銃を取り出していた。定期的な射撃訓練は受けているが――斉藤の訓練成績は良好だった――殺しが専門の公安局員などが来た日には何をやっても同じと諦めてもいた。


「そう、そうだよね、あはは……そうかなあ」

「……確信はない、ね」

「……」

「……」

「あ、あの」「あのさ」


 しばしの沈黙の後、二人が同時に口を開いた。


「……ソフィ、僕の部屋に泊っていったら?」

「あ、えーと、その……うん、そう言おうかなって、思ってて、その……お願いします」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る