第2話 王様だーれだ

 りん。りりん。


 ドアベルが聴覚を刺激したその次に、押し寄せるように香ばしいバターの香りと甘いカスタードの香りが嗅覚を刺激した。

「わーっ! いい匂い!」

 中に誰がいるのかを知覚する前に、有紗は興奮気味に言葉を放っていた。

「よっ、有紗。いいとこに来たな」

 そう言って迎えてくれたのはカウンターの向こうにいる弥生。カウンターの手前には環。そして奥のテーブル席で龍臣と玲が向かい合って座っている。

 中に入った有紗はほぼ指定席になっているカウンター席に着くと、それと入れ替えに弥生がいい匂いの食べ物を大きな丸皿に載せてテーブル席へと運んでいった。その食べ物が置かれると、席の二人は大盛り上がりしている。二人でナイフとフォークを手に、ああでもないこうでもないとやり始めた。

「ねえ、弥生くん。あれは?」

 戻ってきた弥生に目線の先の正体を尋ねると、

「ガレット・デ・ロワ。つくりたて」

 成る程。どおりでバターの香りが強いわけだ。ひとかけらも食べていないのに胃がじわじわと動いている。

 そこで浮かぶのはさらなる疑問。そのお菓子は、記憶では年始のお菓子のはずだ。

「もう一月も終わるのにガレット・デ・ロワ?」

「それがさ、アンブロシアで買おうと思ってたんだけど今年買いそびれちゃってさ。悔しいから自分で焼いた」

「凄いっ! で、それ、食べられる?」

「勿論。二台焼いたもんね」

 そう言って弥生は、カウンターの向こうからもう一台のガレット・デ・ロワを取り出し、目の前に置いてくれた。こちらはテーブル席に置かれたのとは違い、八等分に切られている。

「いい匂いだ。旨そう」

 頬杖をついた環が少しこちらに身を乗り出している。

 ――環さんは環さんでいい匂いなんだけど……。

 そんなことを思っている有紗の前で、弥生は得意げに笑っていて、

「フェーブの代わりにアーモンド入ってるから、歯が折れる心配はしなくていいぜ」

「確かガレット・デ・ロワって、フェーブが当たったら王様なんだよね?」

「そ。王様のケーキだからな」

 王様のケーキ。その響きに、有紗はにんまりと笑んでいた。

 八分の一の確率で王様。しかし、よく考えればここには王様が二人もいる。それはかつてのことで、塞がれた輪の中の話で、有紗と遵以外は誰も覚えていないことだが。

 少しだけ感傷に浸っていると、弥生が取り皿とフォーク、そして取り分けるためのケーキサーバーを取り出してカウンターに置いた。

 これはすぐに食べ出す流れだが、カウンターの上には役者がまだ足りない。

「紅茶も貰いたいな。ダージリンがいいな」

「じゃあ、俺も有紗と同じ物を」

「オッケー。淹れてる間にどれ食べるか選んどけよ」

 弥生が紅茶の準備をし始めたところで、テーブル席の盛り上がりが最高潮になっていた。聞こえてきた部分だけで把握しているのは、龍臣がガレット・デ・ロワを勘で三等分に切り、どちらが先に取るかでじゃんけん五番勝負をし、玲が勝利したのでこれから選んだ一切れに彼がフォークを突き立てようという状況だ。

「王様だーれだ!」

 有紗が顔を向けたとき、ザクッ、といい音がして玲が握り締めたフォークの先端がパイ生地に穴を開けたところだった。

 ひょい、と持ち上げられたケーキの断面に、うっすらとアーモンドの影が見えた。

「オレーっ!」

 どちらも一口も食べないうちに王様が決まってしまった。

「えーっ! 切ったとき全然手応え無かったのに! それになんでいっつも玲が当てるんだよ! おまえと一緒に食ってて俺、一回も当たったことないんだけど!」

「それはオレがってことなんじゃね?」

「くーやーしー!」

 カカカと笑っている玲を見ながら、

 ――だって、王様だもんね……。

 と、有紗は消えてしまった設定を思っていた。

 彼はダイヤのキング、だった。だから何、ということはなかったけれど、そう呼ばれていて、彼自身もそれをわかっていた。

 ――こっちのケーキも、きっと環さんが王様を引くんだろうな。

 環はスペードのキングだった。彼もまた、そんなことは何も覚えていない。

「どれを取るか決まったか?」

 誰にも言えない感傷に呑まれそうになっていると、横で環が僅かに首を傾げていた。

 ――いけないいけない。

 暗い気持ちを押し返して、有紗は努めて笑顔を見せた。

「手前のこれを」

 と言うが早いか、ケーキサーバーを手に取った環が指さした一切れを取り皿に載せてくれた。

 そして、

「俺はこれかな」

 と、その右隣の一切れを自分の皿に取り分けた。

「弥生は? 食べるんだろ? 皿を出せ」

「おっ、サンキュー。テキトーに載せて」

「わかった」

 流れるように差し出された皿に、環が取った右隣の一切れを置いた。

 慣れた所作は環ならではだろう。嫌味無くやってのけるのがまた凄い。

「はい、お待たせ」

 カップの紅茶を頼んだつもりだったが、ティーポットごと出てきた。しかも、それぞれに。

「ポット……?」

「サービス。俺が食べたいのに付き合わせたから」

「そんなのいいのに」

 そう言いながらも、ありがたく頂戴することにした。

 ポットを傾けると、ティーカップに紅い水面が揺らめいた。それと同時にふわりと香りが立つ。ガレット・デ・ロワの匂いと相俟って、唾液が口の中に広がった。

「いただきます!」

 表面のパイ生地にフォークを立てれば、乾いた音がしてますます食欲をそそる。そしてそれを頬張れば、香ばしく甘い味に脳が痺れる。思ったよりも甘い物に飢えていた。じっくり味わおうと思っているのに、手は二口目を切り取っていた。美味しいという感想をいう間も惜しんで三口目。更にもう一口を取ろうとしたとき、手応えがあった。

「あれ?」

 お行儀が悪いと思いながらも、パイ生地を崩してみる。すると、雫型の茶色い物が姿を現した。

 アーモンドだ。

「おっ。有紗、アタリじゃん。おめでと」

「あれー? てっきり環さんが当たるものだと」

「ん? なんで俺が当たると思ったんだ?」

「あ、いえ、なんとなく……」

 スペードのキングだから、とは流石に言えない。口を濁していると、おめでとうと言った弥生の手に、紙製の金色の冠があった。よくガレット・デ・ロワをホールで売っている場所でケーキの上に置かれているような冠だ。

「はい、王様一日券」

 そう言って、戴冠してくれた。

「わーっ! オレにもそれ、ちょーだい!」

「おまえも要るのかよ。ほらよ」

「雑だぞ弥生!」

 弥生が玲に別の紙の冠をフリスビーしている。

 そんな彼らを余所に、有紗は冠を乗せた自分を想像しながら少しいい気分になっていた。

 このままでは続きが食べられないので一旦冠を皿の脇に置くも、暇があると金色のそれを見てしまう。

 紅茶を飲むと口の中がすっとして、気持ちを新たに次の一口が食べられる。それを繰り返していると、皿の上が綺麗になってしまった。

「はー、美味しかったぁ」

 全身が満たされて、深い息が出た。



2022/01/27『王様だーれだ』

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