再結晶
夏休み前の日差しが教室を激しく暖めていた。
少年は凛然と黒板を眺めていた。黒板には少年にとって無意味な線と図形が描かれ、黒板の前にはそれらを書き増やす教師の姿があった。
終業のチャイムが鳴り響く。直後、少年は既にまとめられた荷物を掴み足早に教室を後にする。向かう先は別棟、化学実験室である。
実験室に向かう途中、少年は少女と鉢合わせる。少女の少し茶色みがかったポニーテールが揺れた。少女は一つ頷くと、その場を立ち去った。
無人の実験室は湿気と熱を含んで迎え入れる。
少年は遮光カーテンを開け、窓を全開にする。棚から実験器具と、注意深く一つのビーカーを取り出す。透明な溶液の中に、架けられた割り箸からタコ糸が釣り下げられ、タコ糸の先に乱雑な形のミョウバン結晶が括り付けられていた。
少年はビーカーを見つめ、ノートを開きペンを走らせる。少年にとって、これは三度目の失敗であった。実験方法を眺め直しつつ、次はどうするかを思案する。
実験室のドアが開け放たれた。
「今日も早いな。ホームルーム、参加してんのか?」
「するわけないでしょう。時間の無駄です。」
今しがた、実験室に突入してきたトオルの呼びかけに、少年は目線を机上から動かさず返答した。
「相変わらずお前はさぁ……実験の方はどうなん」
トオルは分厚い化学の参考書を開きつつ、少年の前に腰掛けた。少年は電気ポットのスイッチを入れた。
「失敗です。温度変化が急激すぎたようです。」
「ふーん……けっこう綺麗だと思うけど」
ビーカーを覗きこみ、トオルはしばらく眺めていた。少年は結晶状ミョウバンの計量を進める。
トオルはビーカーから目を離し、参考書に視線を落とす。しかし、何時まで経ってもページは進まなかった。ふと窓の外に目をやると、先ほどの少女が運動着姿で友人と連れ立って歩いて行くところが見えた。トオルはぼんやりと少女を目で追う。一つ溜息が漏れ出した。
少年はその様子を視界の片隅に捉えながら、不格好な小結晶達を、湯を張ったビーカーに流し込んだ。
「そういえばお前、ここ来る途中であの子と話してたよな?」
「はい、先週末から付き合い始めました。」
「へ…………?」
トオルはゆっくりと顔を上げ、少年の顔をまじまじと見た。汗がトオルの首筋をダラダラと下る。少年はビーカーをガラス棒でかき混ぜ続ける。
しばしの間、二人の会話を静寂が支配する。校庭から遠く聞こえる運動部の掛け声とセミの鳴き声に、不規則なガラスの触れ合う音が響いた。
「そう……か……」
トオルから、やっとの思いで音が絞り出された。
少年は結晶が十分溶けたことを確認し、今日初めてトオルと目を合わせた。
「あなたはこの夏休み中、なにをするおつもりで?」
「え……ん~~、あ、これ、やるか」
そういって、手にしていた化学の参考書を持ち上げた。ズシリと重いそれは、窓から吹き込んだ風でパラパラとめくられた。
「ならば、挑戦するのはいかがでしょうか。」
「ん?」
そういって少年が差し出したのは一枚のポスターだった。
「化学オリンピック? ねぇ……」
「これで好成績を残せば受験にも有利でしょう。」
「なるほど……合理的。流石だな」
握力で参考書をバチンと閉じて、トオルは帰り支度を始める。少年はその様子をただ見ていた。
「夏休み中は、しばらく顔を出さないことにするよ。お前は?」
「次回の実験方法だと定期的に様子を見る必要があるので、一週間に一度来ます。」
「了解……なら、次会うのは新学期だな」
トオルはそう言い残して、足早に実験室を出ていった。
それを見送った後、少年はアルミホイルの蓋をビーカーに被せ、冷蔵庫に静かに置いた。
少年は無表情のままだった。
* * *
新学期最初の終業チャイムと共に、少年は教室を後にした。実験室へ向かう途中に少女と目が合い、すれ違う。
実験室の扉を開けると、既にトオルが待ち構えていた。
「よお!久しぶりだな!」
「ええ、お久しぶりです。」
トオルは机の上にある盾を持ち上げ、ドヤ顔で少年に見せつけた。
「金賞、俺の勝ち。日頃の行いだね!」
「別に勝負していた訳ではありませんが。」
少年は冷蔵庫からビーカーを取り出し、仏頂面でトオルに見せた。
「どうぞ、手に取って。」
「すげぇ……」
ビーカーの底には、一辺2㎝正八面体の白が折り重なるミョウバン結晶があった。冷たい溶液から取り出された結晶は、陽光を浴びて床に曖昧な影を落とした。
「夏休み中、ずっと作ってたのか?」
「週に一度来て、飽和水溶液を継ぎ足すだけです。」
「へぇ……俺はずっと勉強漬けだった……」
トオルは少年に結晶を返す。
「そういえば………彼女とはどうなった?」
「あのあとすぐ別れましたよ。」
「ん…………?」
まだ時間が早いのか、運動部の掛け声も聞こえない。セミ達はだいぶ前に力尽きていた。
「『二人とも暫く関わって来ないで!』だそうです。」
「なんで俺も……?」
「日頃の行いでしょう。」
トオルは頭を抱えて、しかし、すぐに顔を上げて
「……わからん……いいか」
宙につぶやく。
「さて、用事があるから今日はもう帰る。また明日な!」
トオルは自分の名前が刻まれた盾を小脇に抱え、颯爽と実験室を出ていった。少年はそれを黙って見送る。
少年は周囲を確認し、ミョウバン結晶を口元に近づけた。
「聞こえますか、社長。」
「ようよう、聞こえてるぜ。無事に
あのグラサン男の声が、透明な結晶を震わせ聞こえてくる。
「お、そうだ。エージェント・
「そのネーミングセンス、なんとかならないんですか。」
「あと三回は
「チッ…………かしこまりました。」
「ねぇ! 今舌打ちしたよねぇ⁉ お? その時間に取り残しちゃうぞ? いいのか? いいのか⁉ ん?」
「帰還後のタスク設定、橋野アツシへの拷問、程度はガラ&+^じナ罪相当の……」
「待って待って、悪かったって……祖国の想像もつかない拷問だけはやめてくれ……」
「冗談です。過程の半分にまで達した者が歴史上いない拷問ですので。」
「一応聞いとくけど、それが全部行われる程の犯罪者が出なかったってことかな?」
「五十三名居まして、いずれも過酷さの余り力尽きました。」
「ですよね! 知ってた‼ そうゆうパターンって‼」
実験室の扉が開いた。入ってきたのは先ほどの少女であった。
「とまあ、『トオル博士』再現に向け精進したまえ。幸運を祈る」
そこで結晶からの声は途切れた。少女と少年はミョウバン結晶に触れる。
「さて、これらが全て終われば我々は自由です。」
「そう……だね……」
その空間から、その時間にとっての不純物が取り除かれた。残ったのは何の変哲も無い、ミョウバン結晶だけだった。
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