第37話

 はたして彼への感情は愛だったのか。あるいは、母から正常な愛を与えられなかった恨みや、それに伴う復讐心から起こった偽物の思いだったのか。あなたはしばしばそういった疑問にとらわれるが、そもそも正常な愛とは何だろうか。


 見返りを求めない愛こそ正常だというのなら、この世に正常な愛がいくつあるだろう。では隠し味に打算を加えた慈しみのことを正常な愛と呼ぶのだろうか。だとすれば、あなたの愛は世界じゅうで最も正常だと胸を張って言うことができる。


 そんなとりとめのない考えが頭のなかをぐるぐると巡っていく。だがこんなことをいくら考えても、彼はあなたの前には戻ってこないし、あなたの胸に宿る愛を定義づけることなど永遠にできない。


「私、母に会いに行きます」


 そう言って立ち上がるあなたを、天上は引き留めた。


「無駄だよ。お母様はいま日本にいない。彼が去ったあと、すぐにフランスへ発ってしまったからね」

「フランスへ? いったい何のために」

「さあ、わからないな。ぼくが聞かされているのは、十日ほど家を空けるということだけだ。きみに予め話がなかったのだとしたら、もともと予定していたものではなくて、急に思い立ったのかもしれない」


 そのときあなたは、父と母が学生時代に留学先のパリで出会ったことをふと思い出した。ともにフランス文学を志す二人はたまたま同じ講義を受けた縁から話をするようになり、遠い異国の地で互いに助け合ううち、恋仲へ発展したという。母が父との思い出をあまり語りたがらなかったため、あなたは二人の馴れ初めを詳しく知らないが、それでも定期的にパリを訪ねる母の姿を見ていると、そこでの生活がいかに特別であったのか知ることができる。


「お母様は宿泊先も明かさずに行ってしまったからね。彼に会いたい気持ちはわかるが、いまはお母様の帰りを待つしかない」


 天上はわがままな子どもを諭すような口調で言い、煙草に火をつけた。あなたは天上の話しかたに少しむっとしたが、その反応がかえって子どもじみているような気がして自己嫌悪に襲われた。


「煙草を一本くださらない? あいにく切らしてしまって」


 あなたは天上から煙草をもらうと、銀のライターで火を点けた。もう二度と彼に会えないのだとしたら、このライターが形見になるのだろうか。それはもともと父が使っていたもので、母が大切にしまっていたのを彼がくすねたのだった。

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