第36話
「彼がお母様のもとを訪ねてきたのは四日前だ。一晩だけ泊まって、翌朝には出て行ったらしい」
「らしい、ということは天上さんは彼に会っていないのね」
あなたは少し残念そうな顔をした。
「ぼくがそのことを知らされたのは彼が出て行ったあとだ。お母様は彼の行き先について知っているみたいだったが、教えてはくれなかった」と、天上は怪訝そうに言った。「それどころか、彼が来たことをあなたには秘密にしておくようにと念を押してきたんだ」
やはり母はあなたがたを引き離そうとしているのだ。すでに予想がついていたとはいえ、こうして事実をはっきりと提示されると、あなたの心はひどく動揺した。母の行動は、彼女があなたがたの犯した罪について知っているという何よりの証拠であり、あなたは頭のなかが羞恥と屈辱の色で塗り潰される思いだった。胸の奥を震源とする震えが、ティーカップを持つ指先へと急速に伝わっていった。
「彼はなぜ母に会いに来たのかしら」
あなたは冷静を装い、天上に質問した。
「詳しくは知らない。ただ、お母様は彼が関係を清算しに来たのだと言っていた」
「関係? いったい何の」
「おそらく、親子関係ではないかな。お母様は、彼と会うことは二度とないだろうとも言っていたよ。お母様が彼を勘当したのか、それとも彼のほうから絶縁状を叩きつけたのか。いずれにしても、お母様は彼のことをもう息子とは思っていないような口ぶりだった」
「母が彼を勘当したとは思えない。彼は母にとって特別な存在だもの」
母があなたよりも彼のほうをより深く愛していることも、その理由についてもあなたは理解していた。あなたがたが生まれてすぐに事故で亡くなった父。その父の面影を色濃く残す彼のことを母はまるで形見のように扱っており、対して自身の遺伝子を強く受け継いだあなたには、ある種の同族嫌悪的な毒素を含む歪んだ愛情が常に注がれていた。
あなたはその毒に気づかぬまま愛を飲み続け、知らぬ間に毒への耐性を身につけたが、思春期を迎えたあるとき、長年にわたって蓄積された毒素が知覚過敏気味の心と強烈な化学反応を引き起こした。水が火に変わるような劇的さで、あなたがこれまで母から享受してきた愛はすべてを燃やし尽くす炎となり、あなたの心を焼け野原へと変えてしまったのだ。
このとき、あなたの心はいちど死に、やがて降り積もった灰のなかから新たに芽生えてくるものがあった。ひとつは母に対する静かなる敵意。もうひとつは、弟である彼への異常なまでの執着心である。
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