第35話
彼は母に会いに行ったに違いない。あなたの視界は怒りで真っ赤に染め上げられた。
「私にしたかった話というのは、そのことだったのね。どうしていままで教えてくれなかったの」
「教えたら、きみは弱った身体を引きずってでもお母さまのもとへ向かっただろう」
「私が何のためにここまで来たのか忘れてしまったの。彼に会いたい。そのためなら何だってする気持ちなのよ」
「だからこそ、きみが元気になるまでは話すわけにはいかなかったんだよ」
表向きには大切な話を持ってきたふうを装いながら、じっさいには事実を隠蔽してあなたと彼を引き離そうとする天上の魂胆が見え透いて、あなたは厳しい顔になった。
「天上さんは私を彼に会わせたくないのよ。お母様と結託して、私を彼から遠ざけようとしているんだわ。私、知っているんです。天上さんが私に隠れてお母様と連絡を取り合っていること。いったい二人で何を企んでいらっしゃるの」
「何かを企んでいるなんて、誤解だよ。少なくともぼくのほうにはそんなつもりは毛頭ない。お母様は何かお考えがあるようだけど」
そのとき天上が見せた思い詰めた顔つきは、あなたの心の恥の部分を刺激した。か弱い動物を悪気なくいじめてしまったような気がして、嫌な息苦しさを感じた。
「教えてください。お母様は何を考えていらっしゃるの」
「それは直接お母様に訊いて確かめるべきだ」
「そんなことをさせて、私とお母様との仲を引き裂くおつもりなのね」
脊髄反射的に吐き出されたその言葉は、しかしながらひどく卑怯な言い方のように思われて、あなたは激しい自己嫌悪に苛まれた。彼のことになると、あなたの感情は指針を失ってひどく曖昧になり、しばしば身勝手な振る舞いをしてしまうことがある。そのたびに本当は彼に会うべきではないのではないかという気がしてくるのだったが、しかしながら彼を探し求めることは、あなたにとって欠けた心の一部を取り戻すことでもあった。彼を見つけない限り、あなたはいつまでも未完成な存在なのだという幻想は常に影のようにつきまとっていた。
天上はあなたの言葉をゆっくりと咀嚼するかのように沈黙していたが、やがて深く重たい溜め息をつくとことの真相を話し始めた。
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