第34話
天上はコーヒーとサンドイッチを、あなたはミルクティーとシフォンケーキをセットで注文した。あまり広くない店内には玄関扉の横の窓以外に明かりを取りこむ箇所がなく、壁掛けの小さなシャンデリアの光があなたと天上の顔を弱く照らしていた。
「落ち着いた雰囲気の店ね」
そう言って店内を見回したあなただったが、瞳は窓の向こうの景色へと強い引力で吸い寄せられていた。意識しないようにと思えば思うほど、かえって強く意識されてしまう。あなたは視線をそっと天上のほうへとずらして微笑した。
「こういうところ、好きだわ」
「そう言ってもらえると何よりだね」
やがて注文していたコーヒーが運ばれると、天上はまず匂いを嗅ぎ、それから音を立てずに一口すすった。
「コーヒーの味もなかなかだ」
「いつも飲んでいらっしゃるものね。結婚したら、私は毎朝試されることになりそうだわ」
「心配はいらないよ。ぼくはただコーヒーが好きだってだけで詳しいわけでもないし、舌が特別に繊細なわけでもない。それに、愛するあなたが淹れてくれたというだけで、美味しく感じられるだろうから」
「そう浮かれていられるのも、誓いのキスを交わすまでです。おとぎ話では、キスは夢から醒めるおまじないでもありますから」
あなたは天上に笑って見せたが、気がつけば視線はまた窓のほうへと引き寄せられていた。強い背徳の磁力に抗うように目を伏せると、天上が怪訝そうに訊いてきた。
「どうかしたのかい。さっきから、どうも落ち着かないみたいだけど」
「気にしないで。熱が引いて頭が冴えてくると、いろいろ混乱してしまうんです。こんな場所で天上さんに会うなんて思ってもみなかったし、それに、どんなに捜しても彼は見つからないし」
視線をゆっくり上げると、陰影を纏った苦い顔があなたを見つめていた。彼の話をすると、天上はいつも同じ表情を浮かべ、その曖昧で不透明で、しかしながら確実に負の臭いを分泌している顔はあなたをひどく不快にさせた。
「彼はここにはいないよ」
肌を刺すような沈黙のあとで、天上は言った。
「どうしてそんなことがわかるの」
「彼は昨日までN市にいたんだ」
天上の口から語られたN市という言葉に、あなたは息を呑んだ。それは、あなたがたが生まれ育った街であり、あなたが最も近寄りがたいと感じている母が住む場所でもあったからだった。
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