第32話
着替えと化粧を済ませたあなたは、駅の方面まで出かけたいと天上に申し出た。特に用事はないが、この部屋に閉じこもっていると何もかも行き詰まってしまうような気分がして耐えられなかったのだ。
「レンタカーがあるけれど、まだ病み上がりだし、天上さんのほうが運転もお上手だと思うから」
「構わないけど、行きは電車とタクシーで来たからね。きみのレンタを使わせてもらおう」
と言って、天上はテーブルのうえに置かれていたレンタカーのキーを手に取った。
「実は、昨日も薬を買いに行くときに借りたんだ。ぼくが事故を起こすと保険がきかなくなるから、気をつけなければね」
レンタカーを借りてからこちら、ずっと運転席に座っていたあなたは助手席に妙な居心地の悪さをおぼえて何度も座り直した。もともと車の運転が得意ではなく、助手席に座ることのほうが多かったはずであるのに、いまはハンドルを握っていないと余計なことばかり考えてしまってどうにも落ち着かない。
特に、このシートに憂希が座り、それを天上が座っている場所からあなたが誘惑したのだと思うと、あなたの心臓は張り裂けてしまいそうなほど強力に血液を送り始めた。ふいに頭に血がのぼったあなたは、暖房が効きはじめる前の車内の冷たい空気と体内との寒暖差のために強い目眩をおぼえた。まるで風邪がぶり返したかのようにぐったりするあなたの顔を天上が心配げに覗きこんだ。
「まだ部屋で休んだほうがいいんじゃないか」
「大丈夫だから、車を出してちょうだい」
やや棘のある声を溜め息に溶かして言うと、あなたは顔を天上とは反対側に背けたが、しかし右手はシフトレバーを握る天上の手に自ずから伸びていった。あなたにとってその身体的接触は、衰弱した肉体が現実から振り落とされないようにするために最も現実的な物質にしがみついたという以外の意味を持たなかったが、天上のほうでは恋人からふいに投げかけられた親愛の証と勘違いしたのか、大きく温かい右手をあなたの手に重ねて置くのだった。ほとんどくすぐるのに近い優しい手つきは、しかしながらかえってあなたの神経をぞっとさせた。
「もしも具合が悪くなったらすぐに言うんだよ」
無言で頷き、シートの背を大きく倒したあなたは瞼を閉じて、ざわめく精神を無理やり眠りの領域へと追い詰めようとした。とにかくいまは何も話したくなかったし、何も聞きたくなかった。凝り固まっていた思考が徐々に微睡みの水面に溶け出していくさなか、駅に着いたら何をしようかと、それだけを考えていた。あなたは駅の周辺に明るくなく、思い浮かぶ場所といえば憂希と行った蟹料理の店くらいだったが、あいにく空腹は満たされていた。
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