第28話
天上誠。その名前を耳にした瞬間、心臓が鉛を括りつけられたように重く沈んでいくのを感じた。あなたは鞄に手を伸ばし、手帳を引っ張り出した。この旅行を終えた後、東京で天上と会うことになっていたが、それは明日のはずだった。なのに、なぜ今日ここへやって来たのか。
天上の精悍であるがゆえにときおり冷たい印象を与える目元がふいに思い出された。記憶のなかの瞳は、異端審問官のような鋭い光を放っていた。出会ってから一年、婚約してからもうすぐ半年になるが、あなたはまだあの瞳を好きになれない。どんな場面であれ、天上に正面から見つめられると、あなたは法廷に立つ被告人の気分になるのだった。
もしや天上は、どこからかあなたの不誠実の臭いを嗅ぎつけて乗りこんできたのではないかという、ありもしない疑念が胸をかすめた。
「通して差し上げて」
重苦しく呼吸しながら待っていると、ほどなくして扉をノックする音が聞こえてきた。
厚手のブラウンのコートに身を包んだ天上は、あなたを見つけるなり額にそっと手を当てた。
「すごい熱だ。辛かっただろう。こんな状態だとわかっていれば、もっと早くに駆けつけたのに」
「ただの風邪よ。寝ていれば治るわ」あなたは天上の手をそっと退けた。「それよりも、どうしてここへ来たの? 今日はお仕事のはずでしょう」
「きみに伝えなくてはならないことがあって飛んで来たんだ。でも、風邪が治ってからにしよう」
「いま話してちょうだい」
「いまのきみはまともに話を聞ける状態ではないよ。駅の方面まで行って、薬を買ってくる。それを飲んで、熱がおさまったら話そう」
天上はあなたの髪を撫でながら妹を諭す兄のような眼差しを送ったが、瞳の輝きは熱と鋭さを少しも損なうことはなく、口の両端を均等に吊り上げた笑顔はどこか作り物めいて見えた。天上はあなたのまえで常に完璧な笑顔と完璧な優しさを見せるが、完璧だからこそあなたにとっては信用ならなかった。人は誰かを完璧に愛し抜くことなどできないのだということを、あなたは弟との思い出のなかで嫌というほど思い知らされてきたのだから。
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