第25話

 波は想像していたよりもはるかに大きく、そして荒々しい動きであなたたちを呑みこもうとする。それはいままでに何度もあなたを受け入れてくれたこの町の海が、初めて牙を剥く瞬間だった。穏やかで、生ぬるく、少年のようなきらめきを放つ夏の海はもう存在しない。いまあなたがいるのは、激しく、冷たく、闇を溶いたように暗い冬の海。がらがらと世界が崩れ去るような音を立てながら、来る者を一息に呑みこんでしまう死の海なのだ。


 あなたたちは暗い激流に何度も足を掬われながらも、必死に浜へと泳いだ。海水を吸って重くなった衣服が身体の動きを鈍らせ、そこに高い波が容赦なく押し寄せてあなたたちを沖のほうへ引き戻そうとする。そのたびにあなたは憂希を決して離すまいと両腕に力をこめ、憂希もまたあなたを強く抱きしめて波から庇おうとした。そのとき、華奢だと思っていた憂希の背中の意外なたくましさをあなたは知った。


 やがて這々の体で浅瀬まで逃げ延びたあなたたちは、砂まみれの身体をあざらしのように引きずって、波の追って来ない浜辺まで這い上がった。


 砂のうえに薄く降り積もった雪が暗闇のなかでほの白く浮かび上がり、そこに寝そべり、もつれあう二つの影をいっそう際立たせた。


 あなたは海水を飲んでむせこんでいる憂希を抱きしめ、濡れた髪を愛撫した。二人とも、身体の芯まで冷え切って震えていた。


「どうして助けたりなんかしたんだ。ぼくは、死んでしまいたかったのに」

「言ったでしょう。私のためなんかに死んではだめなの」

「でも、いま死ななくたって、ぼくはいつかこの町でだめになってしまう」憂希は嗚咽を漏らしながら言う。「この町で何者にもなれないまま、静かに死んでいくしかない。持たざる者として、惨めに生きて、死ぬだけの人生なんだ。でも、あなたと出会って、あなたを愛したとき、何か、生きる意味のようなものを得た気がした。それは、この町には決して存在しないものだった。でも、あなたはあの人を愛していて、この町を去ってしまう。だからそうなる前に、この生きる意味を失う前に死んでしまおう。あなたへの愛を永遠にしてしまおう。そう思ったんだ」


 それは、常に喪失とともにあり、足りるということを知らない哀しい獣の呻きのように聞こえた。あなたは憂希をいっそう強く抱きしめると、耳元にそっと語りかけた。降りしきる雪が、二人の身体を徐々に白く染め上げていく。


「そうやって、この町に支配されているのがいけないのよ。あなた、やっぱりこの町を出て行くべきなんだわ」

「そんなの無理だよ」

「無理じゃないわ。ただ、一歩踏み出す勇気がないだけ。あなたは自分のことを持たざる者だと言ったけれど、何も持っていないわけじゃない。そして持たざる者だと思っているからこそ、いまその手のなかにある、わずかなものを手放すのが怖い。そうではないの」

「それは……」


 憂希は虚を衝かれて口ごもった。遠くで海鳴りが重々しく響いていた。


「何かを手に入れたいなら、喪失をおそれないことよ。いまあるものを失ってでも、もっと大切なものを手に入れたいと思って飛び出すことよ。それから、自分を大切にすること。愛は人生の目的ではなく、手段だと理解すること」

「それって、どういう意味なのかわからないよ」

「愛のために死ぬなんて馬鹿馬鹿しい真似はやめなさい、ということよ。人は愛のために生きるのではなく、生きるために愛するべきなの。それができない者は、私のように、愛に呪われた哀れな人間になってしまう」


 あなたは自分の額を憂希の額に押し当て、相手の目を見つめた。生命力に濡れた、若い狼の目があなたを静かにとらえていた。


「いいわね。愛のために生きるのではなく、生きるために誰かを愛するのよ。決して私のようになってはだめ。いいわね……約束よ……」


 言いながら、鋭い後悔の刃に胸を貫かれる痛みをあなたは感じていた。

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