第24話
「待って」
冬の冷気をまとった叫び声とともに駆け出そうとするあなたを、しかし引き留めるものがあった。腕を強くつかまれる感覚に振り返ると、そこには彼の、あなたが愛したたった一人の弟の幻が立っていた。夜気を吸って黒く染まったその幻は奥歯をぎりぎりと鳴らし、ぎらついた瞳であなたを睨みつけながら、細い手首を捕らえていた。孤独に震え、嫉妬に燃え上がる男の幻影であった。
「そう、あなたはあくまで私を行かせないつもりなのね」
あなたは憤然として言った。
「だったら、なぜ私のもとからいなくなったの。そうまでして私を引き留めたいのなら、どうして帰ってきてくれないの。しかも、あんな置き手紙を残して……まるで、私を呪うようなことをして」
彼との愛をとっさに呪いと表現したことにあなたは驚いたが、しかしそれは決して間違いではなかった。血の繋がった姉弟、しかも双子どうしで愛しあうこと自体がそもそも呪いであるうえに、彼はあの置き手紙と失踪によってあなたを永遠にこの歪な愛に縛りつけたのだから。
彼はお世辞にも誠実とは言いがたい、身勝手な男だった。都合のいいときにはあなたの恋人を演じ、都合が悪くなるとあなたの弟へと戻って、すべての過ちの責任をあなたに押しつけようとした。そんな彼のことを、しかしあなたはどうしても憎むことができず、女として、姉として愛し続けた。
その愛に対する答えが、あの置き手紙だというのか。
怒りと絶望が胸の奥で煮えたぎり、あなたの心を内側から溶かしていった。心の器に穴があき、あらゆる感情が漏れ出していく感覚に酔いながら、あなたは衝動のままに彼を非難した。
「私が心の底から愛しているのはあなただけ。その事実は永遠に変わりはしない。でも、あなたはひどい人よ。あの子を助けに行くなだなんて、最低の男のすることよ。あなたは、卑怯な人だわ。あの子は、憂希は私やあなたなんかのために死んでいい人間じゃないの。私は憂希を助けに行くわ。その結果、私のほうが死ぬことになったとしてもね。それが嫌なら、幻なんかじゃなくて本物のあなたが迎えに来ることよ」
あなたは彼の幻を突き放し、砂浜に走り出たあなたは、砂に足を取られながら、すでに胸まで水に浸かっている憂希の背中を追いかける。ちらつく程度であった雪は勢いを増し、ほとんど吹雪になっていた。雪の幕の向こうに霞んではまた浮かび上がる少年の姿を、あなたは無我夢中で目指した。
「憂希。行ってはだめ」
叫び声に気づいた憂希は、愕然とあなたのほうを振り返った。星もない闇のなかに、少年の澄んだ瞳が強く閃いた。
「美夜子……どうしてここに」
「あなたが呼んだんじゃないの」
膝まで海に沈み、刺すような痛みがあなたの足を襲った。これが、憂希が感じている痛み。報われない愛のために死のうとする者の痛みなのだとあなたは思った。
「来てはだめだ。あなたは戻るんだ」
「嫌よ。あなたを連れて帰ると決めたの。それまでは、絶対に戻らない」
服が水を吸い、重たくなっていくのに耐えながら、あなたは必死に憂希のもとへと泳ぎ続けた。
「私のためなんかに死んではだめ。憂希、あなたは生きるのよ」
思い切り伸ばされた手が、水面下でもがく憂希の腕をしっかりとつかんだ。
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